▼こちらは、この記事の続きです。まずはこちらの記事からどうぞ。
トラウマ・心の癒しにおいて大切なポイントを【図解】にまとめました。
こちらも併せてご覧いただくとイメージが湧きやすいと思います^^
【柱その3】普遍的な心の仕組み、「投影」と「自我(エゴ)」について体験的に理解すること。
【柱その1】【柱その2】の循環の中で、
時間はかかりますが(←これを理解していただくのは大切です。)
本質的な癒しを体験して行くことができると思います。
けれども、
・ずいぶん楽にはなったが、何かがまだ足りない感じがする。「本当に楽になった」とは感じられない。
・人間としての根本的な苦しみから楽になりたい。
・自分が心から求めている愛や平和は、この世界には無いかもしれないと感じる。
そんな方もいらっしゃるでしょう。
もしくは、
人間の根源の苦しみについて知りたい、関心がある。
そんな方々には、この【柱その3】がとても重要ではないかと思います。
これは「悟り」とか「目覚め」「非二元」と言われる領域の話です。
トラウマや心の傷の癒しだけではなく、この観点を持っていることが、溝口あゆかさん提唱の「OADセッション」の特徴であり、
当方のセッションの、一般的なカウンセリングや心理セラピーとの大きな違いと言えると思います。
「すべては投影」「世界はあなたの思考(マインド)の鏡像」
私たちは、自分の外に絶対的な「世界」というものがあると感じています。
けれども、その世界をどのように見て・感じて、そして体験しているかは、ひとりひとり完全に違います。
「世界は恐ろしいところだ」と思っている人は、世界をそのように経験するでしょう。
「世界は温かく安全だ」と思っている人は、世界をそのように経験するでしょう。
同じAさんという人に対して、
ある人は「優しい人だ」と言い
ある人は「調子が良い人だ」と言うでしょう。
その違いを生むものは何か??
それは、その人の潜在意識(無意識の領域)にあるデータです。
データとは、これまでの人生で経験したことから獲得した、その人独自の思い込みや価値観、世界観、傷やトラウマ・・・そういったものです。
私たちは、まったく違う肉体や性質を持って生まれ、その後の人生における経験もひとりひとり違います。
当然、持っているデータは人それぞれ異なります。
そして、その「自分独自のデータ」というフィルターが被った世界を「世界」として認識しています。
これを「投影」と言います。
実は私たちは、
自分独自のデータを投影して、ひとりひとりがまったく違う世界を見て、経験しているのです。
カメラのレンズに青いフィルターを被せれば、青い世界になり、
赤いフィルターを被せれば、赤い世界になりますよね。
それと同じことです。
しかしこの「フィルターを被せる」ということが、完全に自動的に、無意識に行われているため、
私たちは「自分独自のフィルターを被せて認識している」ことにまったく!!!気付いていません。
そのために、世界を「他の人たちも同じように見ている・感じている」と思っているのです。
▼バイロン・ケイティは、これを「世界はあなたの思考(マインド)の鏡像」と表現しています。
ちなみに。
当方のセッションは、この「投影」という、人間に普遍的な心の仕組みをベースにしています。
同じ状況でも、苦しみを感じる人と感じない人が居る。
例えば、遅刻する人を見て、
「遅刻なんてするべきじゃない!人としておかしい!」と腹を立てる人も居れば、
何とも思わない人もいる。
それはつまり、状況そのものが苦しみの原因では無いということ。
苦しみを生む何らかの「種」が、その人の心(意識)の中にあるのです。
そして、その「種」の多くは潜在意識(無意識の領域)にあります。
セッションでは・・・
セッションでは、その「種」を見つけて変容させていくことを目指します。
つまり根本的な原因にアプローチをして行きます。
「腹が立つのは何故か」という原因…たとえば「幼いころにこういうことがあった」とか、そういうものを見つけようとするのではなく、
「どのようなフィルターがあるから腹が立つのか」、そのフィルターを見つけて行きます。
そのフィルターこそが、苦しみを生む真の原因、「種」だからです。
そして、その苦しみを生むフィルターが生まれた理由ですが、
大抵そこに傷やトラウマがあります。
その傷やトラウマを癒して行くことで、「フィルター」が変容して行くのです。
自我(エゴ)の解体
この「すべては投影である」ということ、
「人それぞれ独自のフィルターを被せて世界を認識している」ということ、
概念としては「なるほど」と理解していただきやすい話かと思います。
けれどもこれを、本当に自分の「実感」として理解するのは、実はなかなか難しいのです・・・。
(溝口あゆかさんも「普通は何年もかかる」とおっしゃっていますし、私も何年もかかってやっと、少しずつ実感を伴った理解ができてきました。)
この「すべては投影である」というのを「実感する」というのはどういうことかと言うと、
自分がいかに自分独自のフィルターを被せて世界を見ているか。
いかに思考の幻想(ストーリー)の中で生きているのか。
それが実感として感じられて来るということ。
「すべては投影である」ということが実感で理解できてくると、癒しに、また新たな要素が加わってきます。
それは「自我(エゴ)の解体」です。
言い換えると、
「自分」の解体であり、
「自分が見ている・経験している世界の解体」です。
「分離した個人」という認識・感覚で生きる以上、苦しみは無くならない。
改めて、ここで言う「自我(エゴ)」の定義を、めちゃくちゃ簡単に表現すると、
人が普段「自分」と思ってる意識
つまり、
「私が考え、私が決断・選択して、私が行動している」と思っている「私」
のことです。(「あの人はエゴイスティックだ」とか言う時の「エゴ」とは異なります。)
その「自我(エゴ)」である「私」は
「自分は、世界や他者とは独立・分離したひとりの人間(個人)である」
と感じていますよね。
「自分は独立した個人である」って、何を当たり前のことを言ってるんだ??
そう思われるかもしれません。
それくらい当然のこととして、私たちは、「自分は世界や他者とは独立して存在する、ひとりの人間だ」と感じていますよね。
けれども、それは「真実」ではない、というのが悟りや目覚め、非二元で言われていることです。
▼個人的に面白いと感じた、現代の「悟り」事情の話
「悟りってどんな状態?」悟った50人に心理学的手法で詳しく聞いてみた結果とは TransTech Conferenceから
仏陀は「生きることは苦である」と語ったと言われますが、
「自分は分離した個人である」と感じている状態、つまり「自我(エゴ)の自分」として生きている状態では、
「人として生きることの苦しみ」が完全に無くなることはありません。
言ってしまえば、「自我(エゴ)そのもの」が「苦しみ」だからです。
なぜ「自我(エゴ)そのもの」が「苦しみ」なのか?
「分離した個人」であれば、
何よりも、とにかく「自分を守る必要」があります。
自分の命、生活、お金、家族、所有している物、
自分の価値、プライド、「こういう人である」というセルフイメージ・・・
とにかく「自分」と「自分に纏わるもの」を守ろうとします。
そして、これこそが苦しみに繋がるのです。
自分を守るためには、
他者を攻撃したり戦ったり、自分の正当性を主張したりする必要があります。
自分を強く見せたり取り繕ったり、仮面を付ける必要もあります。
世間に合わせるために、嫌われないように、自分の心を誤魔化したりもします。
これらの「自分を守る」ためのことが、苦しみに繋がります。
また、自我(エゴ)は自分を「分離した個人」だと感じているため、
意識(心)の奥の奥には、
自分が切り離されている感じや、
何か満たされない感じ、欠けた感覚、不十分な感じ・・・
そういう感覚を抱えています。
これは、「自我(エゴ)」つまり人間の意識(心)のデフォルトなのです。
人によって、この大元のデフォルトの感覚に気付いているか、あまり気付いていないかの違いはありますが…。
この違いが生まれる理由のひとつとしては、成育歴やトラウマ的な体験によって、その満たされない感覚や欠けた感覚、不十分な感じが強化されることがあります。
更に、自我(エゴ)は、「分離した個人」であり「自分を守る必要」を感じているため、いつ脅かされるか不安を抱えています。
そのために「絶対的な安心」を求めていますが、
皮肉なことに、
自我(エゴ)には、「絶対的に安心する」「完全に信頼する」といったことが、
そもそもできません。
たとえば、分かりやすい例で・・・
「政財界の大物を数多く顧客に持つ、ものすごい的中率の占い師」に、「あなたは5年後に絶対に●●になる!(←あなたがとても望んでいるもの)」と言われたとしましょう。
(なんだか稚拙な例ですみません…)
言われてすぐは「ああもうこれで大丈夫だ」と「絶対的な安心」を感じるかもしれません。
けれども、3日経ち、1週間経ち、1ヵ月経ったら・・・?
果たしてその「絶対的な安心」は続くでしょうか??
「すごい的中率と言っても、私に関しては外れるかもしれない…」
「いやでもあんなにすごい人だもん、絶対に大丈夫だ!」
「でも占いに100%なんてあり得ないよな…」
信じようとしても、どこかで疑いが芽生えてこないでしょうか?
その疑いから目を逸らして「安心しろ」「大丈夫」と自分に言い聞かせてみても、どこかに疑いや不安があることに気付いてはいないでしょうか?
占いなんて例にしてしまったので「そもそも占いに100%なんて無いよ」と、リアリティを感じていただけないかもしれませんが(あまり良い例ではなかったかも…ごめんなさい)
でも、お金にしても人間関係にしても同じです。
「もうこれで大丈夫だ!」と安心しても、
その安心は、その先もずっと続くでしょうか。
一生安泰なお金を得たとしても、
不慮の事故に遭うかもしれない。
人との関係も年月とともに変わり、
愛する人とも、いつかは離れる時が来る。
人生は何が起きるか分からない。
それが真実です。
その中で「ずっと安心して居られる」ことが、果たしてできるでしょうか。
自我(エゴ)には、「絶対的に100%信じ続けること・安心し続けること」は、
それこそ「絶対的に100%無理」(笑)なのです。
これが自我(エゴ)の性質のひとつです。
けれども、だからこそエゴ(思考やマインド、感情)のレベルではなく、
【柱その2】の、身体感覚としての「安心・安全の感覚の土台」を自らの内に養って行くことは、人生における居場所や戻ることのできる場所・・・「ホーム」を培うことになります。
「自我(エゴ)」の性質や、なぜ「自我(エゴ)」が苦しみを生むのかは、他にも色々とお伝えしたいことはありますが、挙げるとキリが無いのでこの辺で…
ご興味がある方は、ぜひ「自我(エゴ)についての教科書」とも言われるこちらの本を読んでみてください。
▼「自我(エゴ)についての教科書」と言われる本
ニュー・アース
エックハルト・トール (著)
「自我(エゴ)」というものについて、体験的に知り、理解すること。
「自我(エゴ)の自分」として生きる以上、
「分離した個人」という認識・感覚で生きる以上、
苦しみは完全には無くならないということです。
「自我(エゴ)」というものについて、
自分の体験的に知り、理解すること。
そして、それは「真の自己ではない」と気付いて行くこと。
それが本質的な癒しにも繋がって行きます。
ちなみに、自我(エゴ)について深く理解するには、本で読んだりして知識で理解するだけでは、あまり意味が無いと思います。
(とはいえ、まずは知識で「こういうもの」というのを知るのは非常に助けになりますので、お勧めします。)
どんなことでも同じですが、自分の心や思考、マインドを教材にして、体験的に理解して学んでいかなければ、本当の理解には繋がりません。
そのことにおいて、実は【柱その1】の癒しはとても役に立ちます。
自分の潜在意識(無意識の領域)にどんなものがあって、そこで何が起きていたか、
つまり「自分の心(意識)の構造」を知ること。
また、そこにある思い込みや傷の痛み、トラウマのエネルギーを通して、自分が世界をどんな風に見て経験していたか、
つまり「投影」について体験的に理解すること。
それらは、エゴ(自我)について理解する、ものすごく良い方法だと私は思っています。
自我(エゴ)というものを理解することで、、、
自我(エゴ)というものを理解することで、
それと戦うことの無意味さが分かって来ます。
そもそも自我(エゴ)とは「そういうもの」だからです。
- 人と比較して優れている、劣っていると感じたり、
- 今のままじゃダメだと感じて、「もっと良い自分」になろうとしたり何かを得ようと努力したり、
- 自分を正しいと思って他者をジャッジしたり、
- 自分が良ければいい(自分を守る)と思ったり、・・・などなど。
要は、「自分という世界から独立した個人が居る」という概念、感覚に基づいて、その自分を守ろうと様々なことをするのが自我(エゴ)です。
そういった自我(エゴ)の諸々を「ダメだ」「良くないもの」として変えようとしたり戦ったりしたところで、
それが自我(エゴ)というものなのです。
(けれども、これを頭だけの理解でやろうとすると抑圧になります。)
また、
自分の苦しみを「個人的なもの」として見る視点だけではなく、
人間にとっての共通で普遍的な苦しみ、自我(エゴ)の生む苦しみとして見る視点が生まれて来ます。
これによって、苦しみや自我(エゴ)との同化(同一化)が緩んで行きます。
そして、
自分がいかに「自分」を握り締めて、
狭い思い込みの中で、自我(エゴ)という檻(ストーリー)の中で生きているか。
それが見えるようになって来ます。
そして少しずつ「自我(エゴ)は真の自己ではない」という感覚、
その視点・立ち位置(実際は視点でも立ち位置でも無いのですが。)
それが自分の中に生まれてくるでしょう。
個人セッションでは、、、
個人セッションでは、この「柱その3」についても必要に応じて、その方に合わせてワークなどのサポートを行っています。
もちろん、こういうったことにご興味の無い方にはお伝えしていません。強要することはありませんのでご安心くださいね。
私はこの「柱その3」に取り組み始めて、すぐに「すべては投影である」とか「自我(エゴ)は真の自分ではない」と、実感を伴って理解できたわけではありません。
そのため色々ともがいて試行錯誤をして来ました。笑
ですので、同じように道を歩く方にお伝えできることがあるかもしれないと思います。
(ありがたいことに、よく説得力があるとか説明が分かりやすいと言っていただけます。)
お役に立ちそうであれば、ぜひご利用ください^^
「3つの柱」の循環が、本質的な癒しに繋がる。
私自身の癒しの道程において、この3つがの柱、そしてその相互の循環が深い癒しに繋がると今の私は感じています。
「柱その1」と「柱その2」の循環については前の記事で書きましたが、
「柱その3」の、自我(エゴ)についての理解ができてくると、「柱その1」の、自分の心(意識)を見て行くこともやりやすくなって行きます。
自我(エゴ)についての理解は、人間の普遍的な心の仕組みについての理解だからです。
また、自分の自我(エゴ)を観察することや、瞑想などのスピリチュアルなワークも、
潜在意識(無意識の領域)の傷やトラウマのエネルギーが大きいと難しいと言えます。
なぜなら、傷やトラウマのエネルギーは激しい渦のようなもので、ものすごくそれに引っ張られるからです。
セラピーの師である溝口あゆかさんは、それを「巨大な掃除機で吸われるようなもの」とおっしゃっていましたが、体感的にもまさにそういう感じです。
私自身のことで言えば、苦しみの真っ只中にあった頃、一番最初に癒しに取り組み始めた時に行ったのは瞑想でした。
けれども瞑想しようと座ると「こんなことして何になる!」「やったって無駄だ!!」そういう思考が激しく活性化して、まったく座っていられない状態でした。
大袈裟では無く、苦しくて仕方なくて、1分も座っているのが難しかったのです。
その頃はまだ心理セラピーには出会っていなかったので、「そういう状態でも、そういう状態だからこそ、とにかく座りなさい」という瞑想の先生の言葉を信じて、藁にも縋る思いで毎日朝晩座り続けました。
思考過多というのは、生まれ持った性質もありますが、トラウマから来る防衛反応であることも多くあります。
当時の私の状態は、完全に防衛反応でした。
瞑想とは「いまここ」に在ること、
そして、自分を明け渡すことです。
それには安心してリラックスしていることが鍵になります。
けれどもトラウマがあると、それは非常に困難です。
トラウマ状態というのは、常に非常な警戒態勢にあり自分をものすごく守っている状態と言えます。
つまり安心やリラックスの真逆なのです。
自分の中のトラウマや傷のエネルギーが減り、また「安心・安全の感覚の土台」が培われることで
つまり、防衛が緩んで行くことで、
瞑想にも取り組みやすくなると言えます。
ただし、当時の私は必死で座り続けて、半年一年経つ頃には少しずつ楽になって行ったので、その状態で瞑想をすることに意味が無いとは思いませんし、そう言いたいわけではありません。
また、単純に「トラウマが無ければ、いまここに居られる」という訳ではありません。
自我(エゴ)は「いまここ」に居ることができません。今のあるがままへの抵抗が自我(エゴ)です。
また、いわゆる「自我(エゴ)との同化(同一化)」が強い場合、
これも私自身がそうだったのですが、「同化(同一化)をしないように」と意識したり努力しても、非常に難しかったりします。
「自我(エゴ)との同化」についても、生まれ持った性質も影響しますが、
必死で自分を守る必要があるために、そのような状態になっているケースもあると言えます。
つまり、トラウマの影響が背後に存在する可能性があるということです。
「安心・安全の土台」の感覚は「本来の自己」のクオリティに近いため、
その感覚が育ってくると、自分の自我(エゴ)をエゴとして認識しやすくなったり、同化が緩んで行ったりすることに繋がると私は感じています。
傷やトラウマが癒されるほどに(「柱その1」)
そして「安心・安全の感覚の土台」が育まれて行くほどに(「柱その2」)
瞑想やスピリチュアルなワークにも取り組みやすくなると思っています。
もちろんそれに限らず、「安心・安全の感覚の土台」は、人生のあらゆる場面のクオリティを高めてくれるものです。
こんな風に「3つの柱」は、それぞれが大切で、そして、お互いに良い循環を生み出してくれるのです。
ということで、今の私が思う「本質的な癒しのための3つの柱」についてでした。
どういうセッションを行っているのか、なかなかお伝えするのが難しいのですが、少しでもイメージしていただけたら嬉しいなと思います^^
そして、どんなセッションなのかは、実際に受けてくださっている方の生の声が一番ですよね。
ということで、実際にセッションを受けてくださっている方々からのご感想は、以下からご覧ください。