「思考との同化(同一化)」って、どういうこと??
悟りや非二元に関心のある方は
「思考との同化(同一化)」
という言葉を聞いたことがある方も多いと思います。
「思考との同化(同一化)」って、どういうことでしょうか??
私はめちゃくちゃ思考タイプで、
さらに、思考との同化も激しい人間です( ;∀;)
常に頭の中は思考でいっぱい。
苦しかった頃は、その思考のほとんどが自分への冷たく厳しいダメ出しだったので、
いま思えば、そりゃあ苦しいよなあと思います。
自分が、思考との同化が激しいということは何となく分かっていても、
じゃあ「思考との同化ってどういう状態か?」というのは、明確に理解はできていなかったと思います。
思考との同化が緩んで来て、
はじめて、「ああなるほど!思考との同化ってこういうことか…」というのが見えて来たのでした。
私たちは自分の思考を完全に無条件に信じている。
「思考との同化(同一化)」について、
「思考=自分」になっている状態
と言われたりしますし、その通りなのですが、
私はその説明だけでは、分かるようで分からない…という感じでした(^^;)
私なりに「思考との同化(同一化)」を表現すると、
自分の思考を、
完全に、無条件に信じている状態
とも言えると思います。
さて。
これを聞いて「???」となった方は、良い感じです^^
そもそも私たちは、自分の思考について、
信じるとか信じないとか、それすら意識したことがありません。
自分の思考について、
信じているとかいないとか、
そういう発想が出てこないくらい、
まったく疑いなく信じている。
と言って良いかと思います。
これが「思考と同化(同一化)」している状態です。
実際にどういうことか??
私は能力が無い
自分に対して心の底からそう思っている人が居るとしましょう。
その人にとって、それは「真実」だと思います。
なぜなら「その人が、それを深く信じているから」です。
私は要領も悪くて仕事も遅い。実際に仕事で大きな失敗をして、酷く怒られたこともある。
他にも証拠はいっぱいある。
私は能力が無いんだ・・・
その人がそう思っていたとして。
でも、「私は能力が無い」というのは、その人の「思い込み」です。
断言します。笑
「能力が無い」と言った時の能力って、どういう能力でしょうか。
出社から退社までに行う100%すべての業務について、能力が無くて要領が悪いのでしょうか?
能力が無いというのも要領が悪いというのも、人によって基準が違いますよね。「ここから上は能力があって、この下は無い」という客観的で明確な基準なんて存在しません。
また、仕事以外のこと…料理や洗濯や人との会話…あらゆることにおいても「能力が無い」のでしょうか。
そうだとして、それは果たして本当でしょうか。
「能力が無い」って、いったいどういうことでしょうか?
「私は能力が無い」というのは、
これまでの色々な経験から、その人が自分自身に貼ったレッテルであり、
深く信じている「思い込み」です。
さらに、人間の認知の機能として、
「自分が信じていることにマッチしないことはスルーする」というのがあります。
「自分には能力が無い」と深く信じていると、
たとえば、何かの業務について、人から「すごいね!」と褒められたことがあったとしても、それはスルーされてしまい(←これは無意識的に行われます)、
その人の中では「無いこと」になってしまうのです。
そして「私は誰からも褒められたことなんて無い。」と思っていたりします。
「誰からも褒められたことは無い」というのは「事実」では無いけれども、その人の中では事実になってしまっている・・・私たちの心の中では、こんなことが起きていたりします。
ではここで、ちょっと想像してみてください^^
もしその人の中から、「私は能力が無い」という思いが完全に消えてしまったとしたら、どうでしょうか。
その人の言動や振る舞いは変わらなくても、
果たして、その思いが消える前と同じレベルで「私は能力が無い」と感じるでしょうか…??
どれだけその思考を信じているか。
信じている度合いが深いほど、
それはその人にとっての真実となり、その人の中でパワーを持ちます。
どれほどあなたにとって、絶対に「真実だ」と思える思いであっても、
あなたがそれを「正しい」「真実だ」として採用して(←これも無意識的に行われていることが圧倒的ですが)、
そして深く信じているために、
あなたの中で「真実」になっているのです。
「自分の中での真実味の度合い」=「あなたがそれを信じている度合い」と言えるでしょう。
潜在意識(無意識の層)にある思いは、大きなパワーを持つ。
なお、顕在意識よりも潜在意識の方が圧倒的なパワーがあると言われます。
それは何故かというと、
私たちは潜在意識にある思いや信念・価値観などに、まったく気付いていないためです。(なぜなら、潜在意識は無意識の領域だからです。)
「まったく気付いていない」ということは、
つまり、その思いや信念は、一切「それは本当だろうか」と吟味されていないということ。
そのために、自分の深層に、疑いなく信じている思いとして…絶対的なものとして存在しているということです。
たとえば、「私は誰からも愛されない」という思いが潜在意識に存在していたとすると、
それは思い込みに過ぎないのですが、その人にとっては「絶対的な真実」としか感じられません。
さらに多くの場合、「私は誰からも愛されない」という思いには、「私は魅力が無い」とか「どうせ何をやっても無駄だ」など、他の思いもくっついているし、
また、悲しみや怒りなどの色々な感情もくっついています。
感情は「身体感覚」として感じるものですし、
もっと詳しく言えば、その思いには、内的なイメージや、身体(自律神経など)の状態も伴っています。
それらが一体となった「体感・感覚」が、その思いと一緒に発動するために、真実味はめちゃくちゃ大きくなります。
ここでも、ちょっと想像してみてください。
「私は誰からも愛されない」という思いには、
きっと、悲しみや怒り、絶望感など、深い感情もくっついていますよね。
身体が凍り付くような感覚だったり、ぎゅっと収縮するような感覚だったりも伴います。
「私は誰からも愛されない」という思いに、
もしも、まったく何の感情も、身体感覚もくっついていないとしたら…???
真実味や苦しさの度合いは、だいぶ違う感じがするのではないでしょうか。
この、思考と、そこにくっついている感情や身体・神経の反応、身体感覚…それらの総体がトラウマと言うこともできます。
だからこそ、トラウマの癒しや解放というのは、認知のレベルだけでは難しいのです。
身体志向の(ソマティックな)アプローチが必要となる理由がこれです。
私たちは自分の信じている思いを通して、世界を体験する。
まったく疑いなく信じている思いや信念は、
自分にとっての真実として、自分の中で大きなパワーを持ちます。
その思いに従って、世界を見て、体験するからです。
「私は誰からも愛されない」というのを真実だと感じていたら、
世界は、他者はどのように見えるでしょうか?
友好的で温かい、という風には感じられないでしょう。
世界や他者は冷たくて、誰も自分を見てくれず、助けてもくれない・・・
そんな風に感じるかもしれません。
けれどもそれは、実際に世界が冷たくて、誰も自分を見てくれないのではなく、
「私は誰からも愛されない」という思いと、それに伴う体感を通して、世界を見て・体験するために、
そのように感じられるのです。
これが「投影」です。
思考の夢から目覚めて行くために。
普段の自分の言動を観察してみると、
自分が何を信じ、どういう信念を持っているかが見えて来ます。
例に挙げたような「私はこういう人間だ」というセルフイメージに限らず、
常識や社会通念、様々な知識、価値観、善悪の判断基準や正しい・間違っているというジャッジ・・・
私たちは膨大な概念を抱えて、それらを信じ込み、意識的・無意識的にそれに従って生きています。
そりゃもうびっくりするほどです。
「人間は目の前の事実(リアリティ)ではなく、思考の方を真実だと思っている」というのは、本当にその通りです。
私が、どれだけ自分が思考を無条件に信じていて、
そして、そのリアルではない思考の世界の中にどっぷり浸かっているのかを垣間見た時には、
めっちゃくちゃびっくりして、思わず「うわあ!!!」と声を上げてしまいました(;’∀’)
「思考は真実ではない」とか、言葉としては知っていましたが、まったく分かっていなかったのだと痛感しましたし、
また、この深い深い思考の夢から目覚めるって、そりゃあ困難だわ…というのも見えて愕然としました。
思考の夢から目覚めて行くために、まずは、
自分が信じている思いや概念や価値観など、それが見えて来た時に、
果たして、それは本当に「真実」だと言えるのか???
あなたが「絶対にこれは正しい」と思うものは、本当に絶対的に正しいのか???
そんな問いを持ってみてはいかがでしょうか^^
特に、苦しみがある時は、そこに「何らかの苦しみを生む思い」があります。
どんな思いからその苦しみが生まれているのかを観察してみると、見えてくるものがあると思います。
自分は何を信じているのか?
どんな思いや考え、価値観を持っているのか?
自分はそれをどれくらい絶対的なものだと感じているのか?
果たして、それは本当に「絶対」だと、「真実」だと言えるのか?
自分が当たり前だと信じていることを、疑う余地も無いと思っていることさえも疑ってみる。
そして、その思いが自分の中から、完全に消えたとしたらどうだろうか??と感じてみる。
そうやって、自分の思考を、自分を、自分の信じている世界を疑ってみること。
それは、自分と、自分の世界の解体であり、
思考の夢から目覚めていく道のひとつです。
思考の解体…自分の深いところからの答えに出会う。
さて。
「自分がそれを信じている」ということは、
つまり「自分が握りしめている」ということです。
あなたが「これは絶対に正しい・真実だ」と感じる思考(思い)ほど、強く握りしめているものです。
そして、それはどこかで必ずあなたの苦しみにも繋がっています。
たとえば「遅刻は絶対に悪いことだ」という価値観を強く握りしめているとすると、
絶対に遅刻をしないように色々な場面で気を張っているでしょうし、
遅刻をした人に対しては非難する気持ちが出て来るでしょう。
それらは、制限であり苦しみです。
「自分が」信じているということは、
「自分が」手放せる、ということでもあります。
ある意味では、自分にしかできないとも言えます。
あなたが握らないものを、誰かが無理やりに握らせることはできません。
けれども、たとえば苦しみを生む思いを見つけたとして、それを無理に手放そうとしても、徒労に終わることが多いと思います。(私も昔さんざん「手放します!」とかやって、全然無駄でした…( ;∀;)(笑))
ニュートラルにその思考を吟味して、その思考のアテにならなさや、「真実」では無いことが本当に見えた時に、
自然と、手放すこと、その思考から自由になることが起こります。
これは、頭でこねくり回して、理屈で「これは真実ではない」と納得することとは違います。
そうではなく、
身体の感覚をよく感じながら、自分の深いところに「それは本当か?」と問いかけて、そして、答えを待ってみること。
頭で考えた答えでは無く、自分の深いところからの答えに出会うこと。
それが変容に繋がります。
答えは、すぐに顕れるとは限りません。
答えに出会うのに、数ヵ月、もしくはそれ以上かかるものもあったりします。
けれども、自分の内側からの真の答えに出会った時は、それと分かると思います。
そして、先にも書きましたが、
自分にとって真実味が強く、「これは絶対に真実だ!」としがみつくような思いについては、
その奥に、トラウマや恐怖、痛みがあるケースが多くあります。
そのような時は、上述の思考を吟味して解体するアプローチよりも、
そこにある恐怖や痛みを見つけてあげようとしてみてください。
(難しく感じたり、怒りや抵抗、恐れなどが大きかったりする場合は、適切なプロの助けを借りてください。)
ここまで書いて来たことは、別に「やらなければならないこと」ではまったくありません^^
あなたが興味を惹かれるなら、苦しみからの根源的な解放を望むなら、思考の夢から目覚めて行きたいと思うのなら、参考にされてみてください。
ちなみに…「その思い・概念が、自分の中でどれくらい真実か」を観る時にも、
頭で考えるのではなく、感じてみること・身体の感覚に意識を向けることが大切です。
たとえば、頭では「”人に優しくするべき”というのは、別に絶対の真実ではないよなあ」と思ったとしても、
身体感覚として「それが正しい」とか「そうあるべき」と感じていれば、
あなたの中では、それは「そうであるべき真実」になっています。
自分がどう感じているのか?それを感じ取ってみてください^^
「思考の解体」に取り組んでみたい方には、以下の本をお勧めします。