エゴとは「動き」。勇気を持って、ただこの瞬間、完全に委ねて安心して満たされてしまってみる。

いまここで、何も知る必要も得る必要もなく、
完全に完璧に満たされている。

いまがゴール。
いつもそこから離れていないし、離れたことは無い。

エゴとは「動き」。

動きがあると、その「源」(神でも大いなる意識でも、何でも。)
それが感じにくくなる。

源は、静かで何の動きも無い。
「ただ在る」

けれども動きがあると、そちらの方に意識が行ってしまう。

今ここに、その源があることを知らず、気付かず、
今のままでは不十分だと感じて
満たされなさを感じて

動き続けているのがエゴ。

源から離れたように、切り離されているように感じて
無意識のうちにそれを求めて動き続けている、それがエゴ。

けれども、エゴが手を伸ばすところに
エゴが理解できるところに
「それ」は無い。

完全に安心してみること。

何も得る必要も知る必要も無い。

自分を満たすための何が無くても、
不幸のどん底であっても、

勇気を持って、ただこの瞬間、完全に委ねて安心して、満たされてしまってみる。

すると、エゴの動きは静まってくる。

それと比例して「いま」「源」の質が顕れてくる。

なぜかポエム調になりましたがにひひあせる
いまの私の感覚的な理解を、ちょっと頑張って言葉にしてみました。

あくまでも私の感じていることなので、正しいかどうかは知りません。笑

そういえば、「探すのをやめたとき愛は見つかる」というタイトルのバイロンケイティの本があったけれど、まさにそういうことなんだなと。
あとは白隠禅師の「たとえば水の中にいて 渇を叫がごとくなり」もそうか。

苦しい人が悟りを求めたりするが(私がそう)
苦しい状態の人って、つまりは安心をほとんど感じられていない状態なわけで、

その状態で悟りみたいなものを求めても、真逆に向かうというか、
(でもその真逆の極みから一気に悟る人もいる。エックハルトトールとか、バイロンケイティとか。)

だから苦しい人こそ、一気に一発逆転で悟りを求めずに(もちろん求めても良いけど…というか私も求めていたけれど…でも笑)

この記事でも書いたように(⇒本質的な癒しのための、私の思う「3つの柱」

まずはしっかりした方法で、心の深層の傷やトラウマを癒して、
そして神経を整えて安心・安全の土台を作って、
マインドのレベルではない内側の「安心」を感じて行くことって、とても役に立つと、私は体験からそう思っている。

でもじゃあ、安心さえ感じられればそれで良いかと言うと(もちろんそれで日常はとても過ごしやすくなると思う)

「こういうこと(悟りとか非二元とか)」を求めてしまう性の人にとっては、
エゴを超えて行くためには(超えるってのは言葉のアヤです)

やはり「自分のエゴを以てエゴというものを理解する」ことが、これも本当に重要だと思う。

エゴとは何なのか
何を求めているのか
どんな性質なのか
どういう動きのことなのか

そういったことを、自分のエゴや思考を見て、観察して、そこから体験的に知ること。
それによって少しずつエゴとの同一化が緩んで行くから。

これは、ただ「エゴとはこういうもの」という知識を得ただけでは無理だよなと思う。

ということで、今回は思いつくままに書いてみました♪

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