どうしても「100%の絶対的な愛や関心」を求めてしまう…そんな気持ちには理由があります。
・「もっと私を見て欲しい」「構って欲しい」と思って苦しくなる。
・愛されているはずなのに、どこか安心できない。
・「どうせ私のことなんて誰も見てくれない」と心の底で感じてしまう。
こんなふうに感じることはあるでしょうか。
誰かからの、ずっと変わらない絶対的な愛が欲しい。
求めたときに、100%の関心を向けてもらいたい。
「そんなの現実には無理だ」と分かっていても、
どうしても、心のどこかで求めてしまう…。
私は、子どもの頃からずっとそうでした。
そして、そんなものを求める自分を、どこかで「おかしいんじゃないか」と感じていました。
けれども、そう感じてしまうのは、わがままでも弱さでもなく、
実は、自然な「心の仕組み」かもしれません。
なぜ、「100%の愛や関心なんて無い」と分かっていても、
それを求めてしまうのか。
今日は、その背景にある「愛着トラウマ」と「子どもの意識の名残」について見ていきたいと思います。
あなたの中の「愛を求める声」を、
今までよりも少しだけ、優しく理解できるきっかけになれば幸いです^^
絶対的な愛や関心を求めているのは、私たちの中の「小さな子ども」
ものごころついた頃からずっと、私の心の中には、
常に変わらない、100%の愛や関心―
絶対的で揺るがない愛情
それを求める気持ちがありました。
でも同時に、そんなものは存在しないことも分かっていた。
それなのに、心のどこかでは求め続けてしまう…。
存在しないものを欲しがったって無駄なのに。
馬鹿じゃないのか?
そんなふうに自分を責めていました。
恐らく他の人からは、
私が「100%の絶対的な愛や関心を求めている」なんて、
まったくそうは見えなかったと思います。
「そんなのあり得ない、求めるだけ無駄だ」と、
その気持ちを強く抑え込んでいたからです。
子どもの頃、私の中で起きていたこと。
子どもの頃、「自分は誰からも要らない人間だ」と感じていました。
実際に仲間外れになることも多かったので、
「私は誰からも関心を持たれない、何の価値も魅力も無い人間なのだ」と深く信じていたのです。
たまに関心を向けてもらうことがあっても、
まるでザルから零れ落ちてしまうかのように、
自分の中に何も残らない。
私がその人の目の前から居なくなれば、私への関心はゼロになる。
その人の関心は、私なんかじゃなく、“本当に大切な誰か”に向いてしまう。
自分の虚しさや空っぽさを思い知らされるだけ。
私は、誰の心の中にも存在しない。存在できない。
だったら最初から要らない。求めない。
すぐ消えてしまう当てにならないものなんて、意味が無い。
だって、それは私が欲しいものとは違うから。
いま振り返れば、いわゆる「ゼロか100か」の思考だったと思います。
そして同時に、
「100%をもらえないのは、自分が何の価値も魅力も無い人間だからだ」
そう思ってもいました。
私たちの中の、子どものまま時が止まった部分
こうした、その当時の苦しい気持ちや感覚は、
深く私の中に刻まれたまま、大人になっても残っていました。
こうした「子どもの頃の苦しい思いや感覚」は、
そこに救いがもたらされなければ、
私たちの中に(時には無意識の層に)、
その当時のまま、まるで時間が止まったかのように残り続けます。
心理学では、こうした“子どものままの意識”を、
〈内なる子ども(インナーチャイルド)〉や〈パーツ〉と呼ぶことがあります。
絶対的な愛や関心を求めているのは、
この「当時の、子どもの頃のままの意識」なのです。

なぜ「100%の絶対的な愛や関心」を求めるのか。
100%の絶対的な愛や関心を求める気持ちは、どこから来るのでしょうか。
もちろん、その理由は人によってさまざまです。
ひとつの原因だけで説明できるものではありません。
ここでは、そのひとつとして、
「幼少期の親子関係」、いわゆる「愛着トラウマ」の観点から見てみたいと思います。
「100%の愛や関心」への渇望の背景にあるもの。
赤ちゃんや幼い子どもは、人に頼るしかない部分が圧倒的に多いですよね。
自分の生存や安全の多くが、他者にゆだねられているわけです。
だからこそ、赤ちゃんは本能的に「安心できる状態」を求めます。
そして、もしも赤ちゃんや幼い子どもが、
安心感や「大丈夫な感じ」を感じられない状態だったり、
脅威を感じている状態であればあるほど、
それに見合うだけの「より大きな安心」を求めるようになります。
――失われた分だけ、強く求める。
これは、とても自然な「心の仕組み」です。
「ほどよい母親(good enough mother)」という考え方
ここで、イギリスの小児科医・精神分析家のドナルド・ウィニコットが提唱した
「ほどよい母親(good enough mother)」という概念をご紹介します。
ウィニコットは、
「完璧に応える親」でも、「まったく応えない親」でもなく、
「ほどほどに応える親」こそが、子どもの健やかな発達を支えると考えました。
子育てにおいては、赤ちゃんの欲求にすぐに対応できない場面や、間違った対応をしてしまう場面は必ずあります。
こうした適度な「ニーズとのズレ」や「失敗」があることが、むしろ大切。
それこそが「ほどよい応答」であり、
子どもの成長や自立を育む土壌になるという考えです。
「ほどよい応答」がもたらすもの。
ここで言う「ほどよい応答」とは、
子どもの求めに対して、たとえば、
すぐではなくても「ある程度のタイミングで」応えてもらえること。
拒絶ではなく、「待てばちゃんと戻ってきてくれる」という感覚を持てること。
そうした体験の積み重ね―
「不完全さを含んだ、けれども安全な関係」によって、子どもの中に、
・自分で「ズレ」や「欠けた状態」を乗り越える力
・「少し離れても大丈夫」「関係が途切れても、またつながれる」という信頼感
こうした、自己の力の基盤、安心感や信頼感の基盤が育まれていきます。
これがやがて、
心理的回復力(レジリエンス)や、人と関わる力、
他者への信頼、そして自己の安定感の土台になります。
「ほどよい応答」が得られなかったとしたら…
けれども、もしこの「ほどよい応答」が十分に得られなかったとしたら…。
たとえば、
・親が情緒的に不安定だった
・多忙やストレスで子どものサインに気づけなかった
・共感や関心が乏しかった(情緒的ネグレクト)
・過干渉で、子どもが自分で感じたり選んだりする機会を奪われた
そんな状態だったとしたら。
そのとき、子どもの中では、次のような「痛みを伴った学習」が起こります。
「応えてもらえない=自分は見捨てられた」
「つながりが途切れる=自分には価値がない」
「何もさせてもらえない=自分には力が無い」
こうした体験は、赤ちゃんや子どもにとっては、
単なる「辛い」「悲しい」という情緒的な傷つきだけではなく、
「生存にかかわる脅威」になり得ます。
赤ちゃんにとって、関係の断絶は生存の危険に繋がるからです。
「安心感と信頼感の基盤」が欠けたとき
このような脅威、不安や無価値観、無力感など―
そうしたものが心の奥に「欠け」として存在するほどに、
言い換えると、「安心感と信頼感の基盤が十分に育たなかった状態」であるほどに、
人は無意識のうちに
「絶対的な安心感=100%の愛や関心」を求めるようになります。
これが、「100%の愛や関心」への渇望です。
それは、わがままでも、愛情への依存でもありません。
「絶対の、変わらない安全感」を必要とするだけの理由があったということなのです。
なお、この「安心感と信頼感の基盤が十分に育たなかった状態」は、
単に「心の状態」というだけではなく、
自律神経系などの身体的・生理的な状態にも深くかかわっています。
安心やつながりの感覚は、私たちの神経系のはたらきと密接に結びついています。
そのため癒しにおいては、心へのアプローチだけでなく、
身体へのアプローチ…身体的な「安心を感じられる状態」を育んでいくことも、とても大切です。

「100%の愛や関心への渇望」は、苦しみを生んでしまう。
このように、「絶対的な安心感」を求めることは、幼い子どもにとって当然の反応だったと言えます。
けれども現実には、常に100%の愛というのは存在しません。
瞬間的にはあり得るかもしれません。
けれども、いつでもどんな時でも、常に他者にそれを与えるられる人は居ません。
どんなに愛にあふれた親でも、思いやりに満ちたパートナーであっても、それは不可能なことです。
そして本来、愛は「変化し続けるもの」であって、100%という「固定点」を持ちません。
「ずっと変わらずに続く100%が欲しい」と求めるのは、
存在しないもの、無理なものを求めることになるのですから、
苦しくなって当然です。
だから、私の中の「100%の愛や関心を求める子どものままの部分」は、
ずっと苦しかった。
もちろん、癒しに取り組む前は、
この苦しみが「子どもの頃のままの意識」から来ているだなんて、まったく思ってもいませんでした。
だから当然、「今の私の苦しみ」そのものとして感じていました。
子どもの頃からずっと、
心のどこかで100%の愛や関心を求めていて、
でもそんなのは叶うわけがなくて、
そう分かっているのに、求める気持ちはなくならない。
そして、100%をもらえないのは、自分が何の価値も魅力も無い人間だからだと感じてもいて。
癒しに取り組むまでは、
そういう自分自身を、その苦しさを、どうしたらいいのか分かりませんでした。
余談ですが…
「この人間の世界には、100%の絶対的な愛は存在しない」ということを、どうしようもないくらいに知ってしまった人こそが、神や悟りといったものに向かうのかもしれません。

「40〜60くらいでいい」ということ。
先日、尊敬する先輩セラピストとの会話の中で、こんな言葉を聞きました。
人からもらえるのなんて、40〜60くらいの愛情や関心。
それでいい。
そして、自分も、人に対して40〜60でいい。
この「40~60」というのは、
まさに、先ほどのウィニコットの言う「ほどよい応答」です。
「得られるかどうか分からない、瞬間的な100」と、
「40~60だけど、居なくならない関係」
実は後者の方が、「安心」なのだということ。
自分が望むような対応をしてもらえなくても。
「分かってもらえない」と感じても。
喧嘩をしても。
それでも、繋がりが切れないこと。
関係が続くと感じられること。
赤ちゃんにとっての「ほどよい母親」と同じく、
たとえ「ニーズとのズレ」や「失敗」があったとしても、
「それでも居なくならない」と感じられること。
それが本当の「安心できる関係性」です。
この先輩の言葉を聞いた時に、
なんだか肩の荷が降りた感じがしました。
その感覚を言葉にしてみると、そんな感じです。
100を求めなくていいんだ。
100をもらえない自分がおかしい人間、ダメな人間なわけじゃないんだ。
そして、人に100を与えようとしなくてもいい。
100を与えられないことに、罪悪感を持たなくていいんだ。
数年前の私なら、この先輩の言葉に対して、こんな風には感じなかったと思います。
100の絶対が欲しいんだ!
それじゃなきゃ意味が無い!
でも100なんてないじゃないか!!
誰もくれないじゃないか!!
そういう、私の中の子どもの叫びに飲まれていただろうと。
この先輩との会話で、はじめて私は、
自分の中の「100%の愛や関心への渇望」が、いつの間にか、ずいぶんと小さくなっていることに気付きました。
癒しに取り組んでいると、自分でも気づかない部分で、こんな風に変わっていったりします^^
それでもどこかに残っていた、「100%じゃなければ意味が無いんじゃないか」という思いに、
この「40~60でいい」という言葉が届いた感じがありました。
私たちの中の「小さな子ども」に。
私の中の「100を求める声」は、
完全に消えたわけではありません。
でも、今の私には、
その声が、幼かった頃の自分-小さな子どもの叫びだということが分かる。
私の中のその子、
そしてあなたの中の小さな子も、
「40~60なんて嫌だ、100が欲しいんだ!」と言うかもしれない。
その子には、100を求める理由があった。
その必然があった。
その小さな子に、
それを求めて当然だよ。
それが欲しかったよね。
絶対的な100を求める――
それくらい愛を感じられていなかったし、苦しかったね。
今の「大人としての自分」から、こんなふうに言ってあげてみたら--
その子の痛みや苦しみに飲み込まれるのではなく、
ちゃんと見てあげられる「大人としての自分」から、そう言ってあげてみたら、
どんな感じがするでしょうか?
「絶対的な愛が欲しい」と願うのは、
子どもの頃のあなたが、それほどまでに愛を渇望し、求めていたということ。
その声を否定せず、
「それを求めて当然だった」と、
今の大人の自分が、そっと寄り添ってあげること。
それが、愛を、安心を渇望している小さな子にとって、
最初の光になるかもしれません。
「子どもの頃に感じた痛みや愛の渇望を見ていく」ことは、
時に痛みを伴いますし、ひとりで取り組むのが難しい場合もあります。
もしあなたの中の「100を求める声」や「安心できない感じ」を見ていきたいと思われる時は、
その声を一緒に聴いていくサポートをさせていただきます。
🌿セッションの詳細はこちら
「100%の絶対的な愛や関心は存在しない」
その言葉に、怒りや失望、悲しみを感じる方もいると思います。
また、「子どもの声だとは思えない」、
「大人の自分として見てあげられない」「飲み込まれてしまう」
そういう方もいらっしゃるかもしれません。
それは、まったくおかしいことでも、ダメなことでもありません。
私自身も、数年前まではそうでした。
傷や痛みが大きいほど、そのように感じる可能性があります。
いつもお伝えしているように、ひとりひとり、状態も、必要なことも違います。
ここに書いた内容も、すべての人に必要なこと、当てはまることではありません。
どうぞ、ご自身の心に響く部分だけを受け取っていただけたらと思います。












