「感情を感じ切れば癒される」は間違い!?
感情は、感じ切れば
消える・変化する・癒される
このような言葉を聞いたことがある方も多いかもしれません。
実際に実践されてきた方も少なくないでしょう。
私自身も、かつてはそう学び、「感じ切ろう」と一生懸命に取り組んでいました。
…が、変わらない( ノД`)
消えた実感もなければ、癒された感覚もない。
「きっとやり方が間違っているのだろう」と、さらに必死に「感じ切る」努力をしましたが、やはり変化は感じられず、癒しに取り組んでいるはずが余計に苦しくなる…という時期がありました。
「感情を感じ切れば癒される」は、本当に正しいのか?
✔ 一生懸命感じてみても楽にならない…
✔ 逆に苦しくなった気がする…
✔ 何が間違っているのか分からない…
もしあなたがこのように感じているなら、
「感情を感じ切れば消える・癒される」について、知っていただきたいことがあります。
「感情は、感じ切れば消える・癒される」
これは、正しくもあり、間違いでもある。
ということです。
実際には、「感じ切っても癒しや変容に繋がらない」ケースが確かに存在します。
その理由は様々ですが、ここでは特に大きな要因として次の2つを挙げたいと思います。
「感じ切っても癒しにつながらない」主な2つの理由
- 「表層の感情」だけを感じ切ろうとしている場合
- 「キャパシティ(今の自分が安全に処理できる範囲)」を超えてしまっている場合
それぞれについて、詳しく見て行きましょう^^
理由①「表層の感情」だけを感じ切ろうとしている場合
私たちの心というのは、思っている以上に複雑です。
特に、私たちが日々の中で振り回されたり、苦しさを感じたりする感情というのは、単独でポンと現れるわけではなく、“層”のように、幾重にも重なった構造であることが多いのです。
たとえば、「怒りは二次感情である」という言葉を耳にしたことがある方もいらっしゃるかもしれません。
これは、
「怒り」は、もっと深いところにある“根源的な感情”から生まれる防衛反応である
ということです。
一次感情とは?
一次感情とは、ある状況に対して、自然に、瞬間的に湧き上がる、シンプルで本能的な感情のことです。
以下のようなものが典型的な一次感情と言われます。
悲しみ
恐れ(不安)
寂しさ
痛み(身体的・心理的)
恥、罪悪感
驚き、喜び
怒りが「二次感情」と言われる理由
例えば、あまりに不安が強いと、その不安に耐えられないために、人や物に怒りを向けてその不安を感じないようにしたりします。
このように、その感情を感じるのが辛かったり、「怖い」「無力に感じる」などの理由から、それを感じないようにするために「怒り」が出てくる場合があります。
つまり、怒りの下(奥)に、他の感情があるということで、
そうした場合に「怒りは二次感情」と言われます。
誤解の無いようにお伝えしておきたいのは、すべての怒りが二次感情とは限らないということです。
純粋な怒り(一次的な怒り、本能的な怒り)も存在します。
純粋な怒りは、自分の大切なものや人が脅かされた時や境界を侵害された時、理不尽なことが起きた時などに自然に湧きおこる健全な反応です。
これは、自分や他者の命や尊厳、安全や自由を守るための自然な反応であり、「いのちとしてのパワー」であるとも言えます。
表層の感情だけを感じても、癒しには繋がりにくい。
たとえば、こんな心の構造があるとします。
- 悲しい → でも泣くと弱く見られてしまうのが嫌 → 怒る
- 不安 → でもそれを認めたくない → 怒る
- 怖い → 恐れを感じると自分が無力に感じてしまう → 怒る
こうした場合、表に出てきている(二次感情である)「怒り」だけを、いくら「感じ切ろう」として感じても、
その下にある本当の感情に気づかないままでいる限り、同じような怒りは何度も繰り返されてしまいます。
その怒りの奥に、もっと本当の気持ちがある場合に、
そこに気づかないまま「怒りだけを感じ続けても変化しない」ことがあるということです。
これは、根っこを残したまま草を刈っても、またすぐに生えてくるのと同じです。
ここでは怒りを例にしましたが、同じことは他の感情にも言えます。
つまり、表層の感情のさらに下(奥)に、別の根本的な感情が存在しているケースは少なくないのです。
そしてその構造は、「感情Aの下に感情Bがある」といった単純なものではなく、
複数の感情が絡み合っていたり、幾重もの層になっていたりします。
それほど、私たちの心の構造というのは繊細で複雑です。
さらに、多くの場合、本当の感情…その人が本当に感じている本質的な感情は、多くの場合、無意識(潜在意識)の中に隠されたり抑え込まれていたりします。
なぜなら、その本当に感じている感情を感じることは、あまりにも辛く、
感じてしまったら、苦しすぎて自分が崩壊してしまいそうだったり、
圧倒されて身動きができなくなってしまったりするからです。
こうした理由から、辛すぎて感じることができなかった苦しい感情は、
無意識の深いところに押し込められて、私たちの無意識に、消えずに残り続けます。
そして、“自分でも気づかないけれど、確実に影響を与えるもの”として、私たちの思考・感情・行動に影響を与え続けるのです。
どうしたら、下(奥)にある「本当の感情」に触れられるのか?
では、どうしたら「根っこ」ともいうべき「本当の感情」に触れることができるのでしょうか?
それは、簡単ではないことが多いです。
本当の感情に触れることは、なぜ難しいのか?
その感情は「感じたら苦しすぎる」ものであったからこそ、
私たちはそれを押し込め、感じないようにして、自分を守ってきました。
だから、その「感じたら苦しすぎる」ものに触れるというのは、できれば避けたいことなわけです。
そうした部分に触れて行くというのは、簡単なことではないというのは、何となく想像していただけるかもしれません。
そうしたものにふたたび出会っていく時に、いちばん大切なのは、
自分の本当の気持ちを見つめようとする正直さと好奇心、
そして、自分自身へのやわらかくあたたかい眼差し
だと私は思っています^^
癒しは、無理に「感じ切る」ことではない。
私たちは自分の心と向き合うという時、つい、「ダメなものを見つけて変える」というモードになってしまったり、「どうにか根っこを見つけないと」と焦ったりします。
その気持はめちゃくちゃ分かります😂(私も長くそういう時期があったので。)
けれども、そんな風に無理に引っ張り出そうとしたり、力づくで見つけようとすると、
かえって苦しくなってしまうこともあります。
「感じたら苦しすぎるからこそ、感じないようにしてきた」。
それは、自分を守るための智慧でもあったのだということ。
そうやって何とか生きてきたのだということ。
そうした理解とともに、かつての自分にとって、それほどまでに苦しいものであった感情に、優しさといたわりをもってふたたび出会って行けたら。
それは「感じ切る」という作業というよりも、
傷ついた自分に、そっと寄り添うような在り方です。
「私が本当に感じているのは、いったいどんな感情だろう?」
「この奥に、果たしてどんな気持ちがあるのだろう?」
そんな風に、自分の内側に優しく意識を向けてあげてみる。
本当の感情に触れるというのは、
怖かったり不安だったり恐ろしかったり惨めだったり、
そんなかつての自分に出会い、救い出してあげるようなもの。
それは、自分自身に愛や優しさを届けるという、本質的な癒しに繋がることだと思います。

難しさや、ひとりでは上手く行かないと感じる時は…
とは言え、心の構造や潜在意識を紐解いて行くことや、
自分に優しい眼差しを向けることは、
時に、とても難しい場合もあります。
先にも述べたように、心の構造というのは非常に繊細で複雑ですし、
また、自己否定が強い方にとっては、自分に優しさを向けることは非常に困難だったりもします。
(ちなみに私は、自分に優しい眼差しを向けられるようになるまで、何年もかかりました。)
ですから、もしそうした難しさを感じていたり、一人ではうまくいかないと感じる場合には、
どうか無理をせずに、プロの助けを借りてみていただきたいと思います。
ちなみに当方のセッションでは、無意識の層(潜在意識)にアプローチするための特殊な問いかけ(オープン・アウェアネス・ダイアローグ(OAD))を使ったり、「パーツ心理学」のモデルを用いたりして、その方に合わせた方法で心の深層を丁寧に紐解いて行きます。
大切なのは、「本当の気持ち」にたどり着くことだけではなく…
取り組んですぐに「本当の気持ち」が見えてくるとは限りません。
お伝えしたように、様々なものが絡み合っていたり、「本当の気持ち」が深く抑圧されていたりすることがあるからです。
けれども、大切なのは、「本当の気持ち」にたどり着くことだけではありません。
むしろ、「自分自身の中で本当に感じていたこと、起きていたこと」を知っていくプロセスそのものの中に、
たくさんの宝が待っています。
抑え込んでしまったり、無かったことになっている、自分の本当の思いや気持ち。
そういったものに触れたとき、多くの方が驚いたり、感動されたりします。
この驚きや感動も癒しの醍醐味だと、私は思っています^^
さて、長くなりましたので、次の記事で
「感じ切っても癒しにつながらない」主な2つの理由の2つ目、
「キャパシティ(今の自分が安全に処理できる範囲)」を超えてしまっている場合
についてお伝えしていきますね。