父のこと。

だいぶお久しぶり!の更新です。
2023年も終わりですね。

お知らせが遅くなりましたが、今年の10月に北海道から茨城県に引っ越しました。
なかなかバタバタの一年でした😅

そんなこんなで、こちらも更新が滞っていたYouTube【ちえなおちゃんねる 心理セラピストの楽屋裏トーク】
久々に動画を2本アップしました!

みんな幸せになりたい!…けど、夢や願いが叶えば「幸せ」になれるのか??
●「自分を大事にする」って、本当はこういうこと!

1年が終わって新しい年が始まるこの時期、ご自身のことを振り返る方も多いかもしれません。
そんなタイミングで観ていただくと、何か新しい視点が得られるかも??
どうぞご覧ください♪

【今回の動画の内容】
・「お金持ちになる」「素敵なパートナーが居る」「いろんな場所に行っておいしいものを食べる」「田舎でスローライフ」…夢見る形はそれぞれだけど。
・夢や願いが叶えば幸せになれる、のか??
・「美味しいものを食べる」「好きな服を買う」それで本当に満たされてますか??
・「自分を大事にする」にマニュアルは無い。

▼動画はこちら

「みんな幸せになりたい!…けど、夢や願いが叶えば「幸せ」になれるのか??」
https://www.youtube.com/watch?v=msLHIZ2Zb94

「自分を大事にする」って、本当はこういうこと!
https://www.youtube.com/watch?v=msLHIZ2Zb94

父のこと。

この1年を振り返ると、「いやー大変だった…😂」と思います。

この1年は、父のことを抜きには語れません。
そして私にとって、とても大きな1年だったと思います。

今年の終わりに、自分にとっての区切りの意味でも、そのことについて書いてみたいと思います。
独白のようなものですが、良かったら読んでやってください😊

ではでは、2023年、皆さん本当にお疲れさまでした!!
2024年が幸多き一年になりますように✨✨


昨年の秋、父がレビー小体型認知症を発症した。
突然の発症だったし、その強烈な症状によって、家族はいきなり待った無しの差し迫った状況に追い込まれた。

「レビー小体型認知症」という病名は、父が診断を受けて初めて知ったのだが、
アルツハイマー型認知症とは症状が異なり、「物忘れ」というよりも、幻覚や妄想などが主な症状で、認知がはっきりとしている状態と、まったく分からなくなってしまう状態を行ったり来たりするのが特徴とのこと。

父の症状はかなり強烈だった。
母から「お父さんがおかしくなってしまった」と連絡を受けて、私はすぐに訪問診療の医師を探して往診に来てもらったのだが、あまりに状況が切迫しているということで急遽措置入院となった。

父の症状は激しいものだったし、父も、恐らくものすごく不安で怖かったのだろう。
もともとの攻撃性がさらに高くなり、本当に何をするかわからないような状態になった。
こうした状況の中で、歪ながらもなんとか微妙なバランスで成り立っていた父と母との関係は、ずっと抑圧してきたものが溢れ、バランスを失って壊れた。
私も、父との関係における幼少期からのトラウマ…父が何をしでかすか分からない、こちらがどう頑張っても抑えがきかないという恐怖が刺激されて、本当に苦しい状態だった。


幼い頃から、父という人に苦しめられてきた。(と私は感じてきた。父だけではなく母に対してもだけれど。)
けれどもこの10年、自分の癒しに取り組む中で、私の父への見方はだいぶ変化して、そして父との関係も少し変わって。
「父との関係が良くなった」とか「問題が無くなった」なんて、とてもそこまでは言えないけれども、
でも、ここまで来られて本当に良かったと感じていた。

けれども今回、父がレビー小体型認知症を発症して、
その激しい症状と、そして切羽詰まった状況の中、父という人が抱えるトラウマや痛みが、剥き出しになって爆発して、
それに対応する私は、本当に不安と恐怖でいっぱいになり、
正直なところ、死んでしまいたいと思うくらいの時が何度もあった。
「ずっと苦しめられてきて、ここまで来ても、まだこんな思いをさせられるのか」と、どうにもやり切れない、持って行き場の無い思いにも苛まれた。


最終的に父は介護施設に入所したが、入所してしばらくは、施設を脱走しようとしたり職員の方への暴言が酷かったりで、施設からは「まだ何とか対応していますが、もし一度でも手が出てしまったら退所になります」と、何度か宣言されるほど。
父は、かっとなると何をするか分からず、本当に手を出しかねない状態だったので、私は常に退所になる不安と恐怖に晒されることになった。
そんな父を少しでも宥めるために、暴れるのを回避するために、私は父に手紙を書くようになった。(施設とは飛行機の距離で、頻繁に面会に行くことは無理だったのと、父との面会は私にとって精神的な負担がものすごく大きかったので。)

父と私は決して良い関係ではなかったので、手紙と言っても何を書いたら良いのか分からない。
職員の方たちには暴言を吐き、脱走しようとするほど施設が嫌な父に対して「お元気ですか」の言葉を書くことも躊躇われて。
それでも何とか手紙を書いた。
それは純粋に父のためを思ってというよりも、父が退所になる可能性を少しでも減らしたいという私の都合でのこと。
父の気持ちを宥めるための、気持ちのこもらない上っ面の「ありがとう」を綴ったこともあった。
父が少しでも落ち着いてくれたらという「私自身のため」が8割、
少しでも父の不安や寂しさが埋まればいい、決して見捨てられたとは思わないで欲しいという気持ちが2割。

でも意外なことに、父はその手紙を喜んでくれていたらしい。
ある時に施設の方から「最近はあまり体調が良くないみたいで、声を掛けても反応してくれないことも多いんですが、”なおこさんからの手紙ですよ”と言うと、パッとこちらを見てくれるんですよ」と言われて驚いた。

父には申し訳無いかもしれないが、私は父に可愛がられたとはまったく思わない。
男親は娘を可愛がると言うけれど、父に関しては、むしろ弟たちよりも私に対しての当たりがきつかったし、それこそ話しかけても無視されたり、理不尽な怒りを向けられたりすることが多かった。
だから、父が私の手紙を喜んでいるというのは意外だった。

そしてさらに、面会に行くと父が「ありがとう」と言ってくれることもあった。
「そんなに何度も来なくていい、無理するな」とさえ言うこともあった。
私が帰る時にエレベーターまで見送ってくれたことがあった。父が私を見送るなんて、そんなことは初めてで、泣けてしまった。
(私が実家に帰って「ただいま」と言っても、なんの反応もせず無視するような人だったので。)

こんな些細なことでこれだけ泣かされるんだから、父という人は、なんて得なんだろうかと思ったりした。


一度だけ、父が「寂しい」「最後にこんなことになって、自分の人生はいったい何だったんだろうと思う」と漏らしたことがあった。
父が自分の気持ちを口に出したのを聞いたのは、後にも先にもこの一度きりで。
心からびっくりした。

我が家は父を施設に入れるしか無かったが、
父に対して、本当に申し訳無い、可哀想なことをしてしまっているという気持ちもずっとあった。
父が毎日、どんな気持ちで施設で過ごしているかを考えると、泣けて仕方なかった。

父が亡くなってから施設の介護職員の方から聞いた話だが、父は機嫌の良い時は職員の方にも「ありがとう」と言うことがあったと。
施設に入ってから、父はどんな気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。
考えても決して分からないことなのに、今でもふと考えてしまうことがある。


この1年で改めて、本当に良かったと思ったのは、
自分の癒しに取り組んできたこと。

それがあったから、父の苦しみが見えたし、
激高する父への恐怖は大きかったが、それでも、表面的な言動の奥にある父の本質や大きさ、本当は存在しているあたたかさを見ることができた。

そして何より、父に触れることができたこと。
興奮して憤りをぶつけてくる父の手を握ったり、背中をさすったり。
それができたこと。

以前の私には、そんなことは到底無理だった。

父の身体に触れると、僅かではあったけれども、父の状態が変わるのが伝わってきた。
癒しに取り組んできて、そして、人間のシステム…自律神経系の仕組みや触れることがもたらす効果とか、そういうことを学び体験したからこそ、父に触れることができたと思う。
それができたことは、私にとっても、ある意味で救いになったように感じる。


実家に滞在して父の面会に行ったり様々な対応をして帯広に帰ってくると、
空港から町に向かうバスの中、車窓に広がる広大で美しい十勝の景色。
そんな景色を見ながら毎回、「帰って来られた」と涙していた。

実家から飛行機の距離があったことは、私にとって大袈裟ではなく僥倖だった。
これがもっと近かったら、きっともっとずっと辛かっただろうし、恐らく耐えられなかったのではないかと思う。
この夏は、父が施設に入った当初よりも少し落ち着いてきて、というか、父はどうしても施設の食事が口に合わずに栄養失調のような状態にもなり、少しずつ弱ってきてもいて。
それは私にとって非常に辛いことだったけれど、面会の時に差し入れを持って行くことや「元気になるためにも、できるだけ食べてね」と手紙で書くことくらいしかできることが無かった。
でも同時に、いつ退所になるかとビクビクしていた最初の頃よりも、精神的に少し楽ではあったのも事実で。
ようやく少し、帯広生活を楽しめるかもしれないと思っていた。

その矢先に、突然に父が亡くなってしまった。
それは、父の誕生日を1週間後に控えた日だった。
誕生日には面会に行く予定にしていたが、それを目前に逝ってしまった。

正直、あまりに辛くて父に早く死んで欲しいと思うこともあった。
けれども亡くなってしまうと、最後にもう一度会いたかった、話したかったと思ってしまうのだから、勝手なものだ。

葬儀の前日、父の棺に入れるために最後の手紙を書いた。
父に手紙を書く中で、手紙の最初の出だしの文章として自然に定着した「お父さん、奈穂子です」から始まって、「最後の手紙を書きますね。」と続いた文章は、
初めて父に対して、何の配慮も遠慮も無く、完全に自分の正直な気持ちを書くことができた。
書きながら涙が止まらなかった。
今まで書いた手紙も、「一生懸命書いたんだから、ちゃんと持って行ってよね」と、すべて棺に入れた。

葬儀社との打ち合わせの時に、父がビールが大好きだったけれど、入院してからはずっと飲めなかったという話をしたら、担当の方が「じゃあ末後の水をビールでやりましょうか!」と提案してくださって、葬儀の時には家族みんなで「やっと飲めるね」と言いながら、父の口にビールを含ませてあげた。
たまたまご縁があったのが小さなアットホームな葬儀屋さんで、ありがたいことに、お陰で良い式になったと思う。

父とはきっと、とても縁が深かったのだろうと思う。
たぶん私がいちばん、父に似ているから。

ヘタレの私には、本当に辛い1年で、
もう二度とあんな思いや経験はご免だと思うけれど、終わってみれば、ある意味でまっとうさせてもらったかもしれないと思う。
じゅうぶん、では無いが、せめて私にできることはさせてもらえたのかもしれないと。


そしてこの1年、本当に多くの人たちに助けていただいた。
ありがたくて涙が出る経験を何度もした。
訪問診療の先生、看護師さん、スタッフの方。
緊急の措置入院を受け容れてくださって、さらに様々に力になってくれた病院の方々。
精神病院の看護師さん方。
施設の斡旋会社の方。
施設の職員さん、介護士の方々。
葬儀会社の方。
そして、精神的にも物理的にも助けて支えてくれた友人や先輩たち。
心の底からありがたく、「ありがとうございます」としか言えないことがもどかしいほど、本当に、信じられないくらいの優しさとご厚意をいただいたと思う。

本当にありがとうございます。

私の人生でもっとも辛く、
もっともありがたい、不思議な1年だったと思う。


父が亡くなった3日後に、夫の茨城県への転勤の辞令が出た。
笑ってしまうようなタイミング。
十勝は、まさに私の避難所だったのか。

もし父が亡くなるのがもう少し遅かったら、このタイミングの転勤・引越しなんて、とてもじゃないけど無理だったんじゃないかと思う。
夫や友人と、「お父さん、最期は困らせないようにって思ってくれたのかもねえ」と話して笑い合ったりした。

今日は父の月命日。
私にとって、いろいろな意味で大きな存在だった父。
恐らく苦しみの多い人生だったろう父に、本当にお疲れさまでしたと思うし、
もしも生まれ変わりというものがあるのならば、次はもっと気楽で幸せな人生を生きて欲しいと、心からそう願う。


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