人間は、日々たくさんの「防衛」をしている。
日々の自分の言動や反応を意識的に観察してみると、
その多くが「自分を守るため」そこから来ていることが見えてくると思います。
たとえば、
- 人に気を遣うこと、感じ良く振舞う。
- 嫌だと思っても言わずにいる。
- 自分を大きく見せる、逆に小さく見せる。
- 相手より優位に立とうとする。
- 言い訳をする。
- 相手を責める、批判する。
- 怒る、怒りを感じる。
などなど、
もちろん私も色々やってます…(^^;)
自分が傷つかないように、脅かされないように。
悲しみや寂しさ、惨めさを感じないように。
人それぞれ色々なパターンはあれども、人は色々な場面で、色々な手段で自分を守っています。
その多くは、無意識に刷り込まれているパターンのようなもの。
防衛パターンはどこから来ているか?
その防衛パターンはどこから来ているかと言うと、
ひとつは、「これは良いこと」「これは悪いこと」などの、社会の価値観の刷り込みによるもの。
社会的に「悪い」と言われることをすれば、
ダメだと言われたり、人から批判されたり、「痛い目」に遭う可能性が高いですよね。
それを恐れて避けようとする防衛、
これを便宜的に「観念的な恐れによる防衛」とでも言いましょうか。
そしてもうひとつが、傷付いた体験やトラウマのようなものから来るもの。
分かりやすく言えば、痛みを体験したが故に「もう二度とあの痛みは経験しないように」と、何とかそれを避けようとする防衛です。
これを、ここでは「トラウマ由来の防衛」と名付けてみます。
防衛の奥には、恐れや痛みが存在しています。
防衛は、痛みや恐れ、「危険」と感じる状況から自分を守るための戦略です。
ですから、防衛が「悪い」という話ではありません。
それは実際に、あなたを守ってくれてきたものだからです。
防衛が、ストレスや悩みに繋がってしまう場合。
「防衛」は悪いわけではなく、必要なものでもあります。
けれども、防衛がストレスや悩み、苦しみに繋がってしまうこともあります。
- 人に気を遣いすぎて疲れてしまう。
- 断れない。嫌なのに嫌と言えない。
- 些細なことでもイライラする。
など。
それは、防衛が必要無い状況でも、それが発動してしまっている状態です。
特に「トラウマ由来の防衛」は、過去のある状況では必要だった防衛のパターンが、その状況が終わってもパターンとして残っていて、その防衛が必要無くなってからも発動し続けてしまっている状態と言えます。
セッションで、悩みや苦しみに繋がる防衛パターンを見て行く場合は、
何を恐れているのか、何を守ろうとしているのかといったことを見て行きます。
その奥には、多くの場合、深く傷付いた自分がいるからです。
その防衛パターンが必要な恐れや痛みの中に取り残されたままの自分の一部を見つけて、
そっと救い出してあげること。
かなり大雑把に言うと、それがトラウマの癒しです。
「防衛」は、人間のデフォルト。
先ほど「防衛は、痛みや恐れ、「危険」と感じる状況から自分を守るための戦略です」と書きましたが、
この「恐れ」というのが、なかなかにやっかいです。
恐れの根っこには、人間共通の恐れ…つまり「エゴの恐れ」があります。
それは、「肉体の死」と「自己価値の死」です。
肉体的な死への恐れというのは分かりやすいと思いますが、
私たちはそれだけではなく、「自己価値の死」も恐れています。
- 誰からも見向きもされず孤立すること。
- 劣った人間になること(劣った人間だと感じること)
- 役に立たない人間と見做されること
・・・などなど、自己価値の死も、人間にとって、ものすごく痛いこと・惨めさを感じることであり、
なんとかそうなるのを避けようと頑張ります。
とにかく人は「自分」を守ろうと懸命です。
ちなみに「自分よりも、家族や大切な人を守ろうとします」という人も居らっしゃるかもしれませんが、
それも、家族や大切な人が傷付いたら、自分が苦しいから・痛いからであって、最終的には自分を守っています。
これも、それが良いとか悪いとかいう話ではありませんし、
自分の大切な人や物が傷付いたら、痛かったり辛かったりするのは当たり前です。
「人は自分自身と、自分の延長と見做したもの」を守ろうとする、と言った方が分かりやすいかもしれません。
自分の家族、地位、社会的な顔、家、車など、大切にしている人や状況、物、…
そういったものを自分の延長をみなして、それも含めて守ろうとします。
でもその時に「相手のためだけ」ではなく、「自分が痛いからなのだ」と、
「自分のためにやっているのだ」という認識を持っていることは大切だと思います。
過剰な防衛を降ろして行くこと、鎧を脱いで行くこと。
話を戻して…
こんな風に人間は、自分を守ること…「防衛」の中で生きているし、
それがエゴの性質で在る以上、「防衛」は人間のデフォルトです。
実は私たちは、日々この「防衛」に、非常に大きなエネルギーを使っています。
けれども、ほとんどが無意識的に行われていることなので、どれだけ大きなエネルギーがそこに費やされているかには、まったく気付いていません。
癒しというのは、
不必要な、過剰な防衛を降ろして鎧を脱いで行くこと、
それから解放されて行くことと言っても良いかもしれません。
けれども、繰り返しになりますが、自分を守るのがいけないとか、それを止めようという話ではありません。
自分を守ろうとするのは当然ですし、特にトラウマがあれば「防衛」は強くて当たり前です。
無理に防衛を降ろそうとか緩めようとするのは、
癒しではなく、自分虐めになってしまいます。
(自分虐め・・・私も今でも結構やってしまいますが( ;∀;))
防衛を降ろして行きたいと思われる方に、まずは、自分にとっての「ちょっとした防衛パターン」から見て行ってみることをお勧めします。
「大きな恐れがくっついていない防衛」と言った方が分かりやすいかもしれません。
「ちょっとした防衛パターン」は、トラウマ由来というよりも「観念的な恐れによる防衛」であることが多いと思います。
「観念的な恐れによる防衛」であれば、自分の防衛パターンに気付いて「その防衛は本当に必要なのか?」を吟味してみること、自分に問いかけてみることで、今の自分には不要だということが自分の中で明確に腑に落ちれば、緩まる可能性があります。
この防衛・恐れはどこから来ているか、何に根差しているか?
この防衛は本当に必要か?
そういった視点で心を見つめて自分に問いかけてみることが、助けになるかもしれません。
一方で、「トラウマ由来の恐れ」は、身体に深く根差した反応であり、大きな痛みや恐れがそこにあるために、
それを吟味したくらいでは弱まらないことの方が圧倒的に多いと思います。
「トラウマ由来の恐れ」については、深層にある痛みを、安全で温かいスペースの中で癒して行くことが必要です。その結果、防衛が緩んで行きます。
しっかりしたトラウマケアの手法に取り組むか、自分では難しそうだと感じる場合は、プロの手を借りることをお勧めします。
決して傷付かない「本質の自己」に気付いて行くこと。
癒しの道として、このように自分を癒しながら、自分を見つめながら防衛を降ろして行くことと、
もうひとつ、「そもそも守らなければならない自分はいなかった」ということに気付いて行くことがあります。
奥の奥には、決して傷付かない「本質の自己」が在ります。
ある意味では、人間は、気付かぬうちに過剰防衛状態に陥っているとも言えるのです。
エゴは小さなことでショックを受けたり「傷ついた!」と大騒ぎしたりします。
(私のエゴちゃんはしょっちゅう大騒ぎですよ・・・( ;∀;))
けれども、奥の奥には、決して傷付かない「本質の自己」が在ります。
その「本質の自己」に意識を向けて行くこと。
「防衛しなくても大丈夫なのだ」と、体験的に分かって行くこと。
それにより、自然に防衛は弱まって行きます。
それも、本質的に楽になって行くためのひとつの道です。
「本質の自己」が分からなくても大丈夫です。
というか、分からなくても当然です(笑)
けれども、私たちの意識や意図というのは、船の舵のようなものです。
意識を向けた方向に向かいます。
「本質の自己」を知りたい、体験したい。
あなたが真にそれを願うのであれば、そこに意識を向けてみてください。
ここで言う「意識を向ける」というのは、「それについて考える」こととは違います。
感覚的なことなので言葉にしづらいですが、私の感覚で言うと、
自分の奥深くの静かな場所に、その意図・願いを届ける…という感じでしょうか。
防衛を降ろして無防備になることは、ハートを開くこと。
防衛を降ろして無防備になることは、ハートを開くことでもあります。
ハートを開くことと自分を防衛することは、両立しません。
ハートが開いてくると、本質や愛のエネルギーを、それまでより敏感に感じられるようになります。
それは、自分の深い癒しにも繋がります。
もちろん、ハートも、開かなければいけないわけではないし、無理に開くものでもありません。
けれども、もしあなたの奥深くに、「ハートを開きたい」…その願いがあるように感じるのなら。
それは本当に微かな、密やかな声かもしれない。
なぜそれを願うのか、理屈も理由もなくていい。
その願いを、そっと大切に、あなたの心の内奥に届けてみてください。
私たちの深い意志・願いは、船の舵のようなものであり、大きなパワーを持っています。
真の願い・祈りは、あなたを、あなたの願う方向へと導いてくれます。