究極の癒しは「過激な受け容れ」。

目次

「自分を受け容れる」とは、どういうことなのか。

自分を受け容れましょう。

これ、癒し業界(笑)では、よく言われる言葉ですよね。

でも、じゃあ…と言って「自分を受け容れよう」と思っても、
なかなか難しくないですか??

苦しかった時の私には、とても難しかったですにひひあせる

そして、「受け容れる」とか以前に、

「受け容れる」ということの本当の意味や
「受け容れる」とは、どういうことなのか。

それが分かっていなかったなあと、今はそう思います。

「究極の癒しは、”過激な受け容れ”である」

私は2013年に、ロンドンのHolistic Healing Collegeのカウンセラー養成講座に参加しました。

その中で、師である溝口あゆかさんのお話にあったのが、

「究極の癒しは、”過激な受け容れ”である」ということ。
(”過激な受け容れ”(Radical Acceptance)という言葉は、「フォーカシング」というセラピーテクニックのマニュアルのタイトルだそうです。)

自分の中の、どんなに醜い部分や酷いと思うような部分であっても、

本当に心から、それを受け容れることができれば、
苦しみは無くなる。

たとえ世界中の人から非難されたとしても、

自分だけは、心から自分の味方で在ることができれば、
苦しみは少ない。

「こんなのはダメだ!」と、
「自分」や「自分の中にあるもの」を否定したり、それに抵抗したりすることで苦しみが生まれる。

「こんなのは人としてダメだ」とか
「こんな人間は決して受け容れられない」と思うような部分でも、

どんな思いや感情であっても、

過激に、徹底的に受け容れる。

それができれば、苦しみは無くなる。

・・・こんなお話でした。
なるほどな~!と思いながら聞いていたのを覚えています。
(私の記憶を元に書いているので、言葉などは違う可能性が高いです。ニュアンスで感じていただければ幸いですm(_ _)m)

念のため・・・。

これは「どんな思いや感情があってもOKなら、じゃあ、酷いことでも人を傷付けるようなことでも、やってOKなんだね♪」ということではありません。

「自分の中で、”そういう自分”を、徹底的に受け容れる・OKにする」ということです。

私の癒しのストーリー

このHolistic Healing Collegeのカウンセラー養成講座から、私の癒しの旅は始まったわけですが、
その後の私が「自分を受け容れる」ができたかというと。

まったくできませんでした~笑い泣き

当時「私は世界で一番酷い人間だ」と心から思い込んでいた私には、
自分がめちゃくちゃ否定して、酷いと思っている部分を受け容れるなんて、とてもじゃないけれどできなかった。。。

けれども、癒しの過程で様々な体験をして、自分自身を深く理解していく中で、
「受け容れる」ということを、体験として理解できるようになって行きました。

何度も何度も、自分の心の深層、潜在意識の層にある、気付いていなかった「本当の思いや感情」に出会うことで、
少しずつ自然に、自分自身への愛や優しい目線が育まれ、
そして、自分の苦しみに対して「そうだったんだね」と受け容れることができるようになった。

でも、そうやって癒しが進んで来ても、
自分の中の被害者意識に対しては、ずっと、「受け容れる」ということができませんでした。

この被害者意識は、子どもの頃から、私にとって「人間として絶対にダメなもの」であり、
どうにか無くさなければならないもの、変えなければならないものでした。

「否定ではなく、変えようとするのではなく、ありのままを受け容れることが大切」ということを、実体験として理解できてからも、
被害者意識に対しては、どうしてもそれができなかった。

単純に「被害者意識を受け容れよう」という話ではなく、
被害者意識の奥にあるもの、被害者意識が生まれている大元を見て行くことも大切です。
そして、被害者意識のベースには深い無力感があります。

また、何かを「絶対にダメなもの」として激しく否定する声にも、深い思い込みや感情など様々なものが絡んでいます。

ここから先の私の話は、それらのものを含めて自分の心を見つめて来たプロセスの中で起きたことです。

このようにずっと、自分の中の被害者意識を受け容れられない状態だったのですが、ある時ふと、

この被害者意識の声を、ただそのまま聞いてみよう。

そんな風に思いました。
そして、自分の中の被害者意識にアクセスして、それをそのまま、何の否定も無く、存分に暴れさせてあげるくらいの気持ちで感じて行きました。

その被害者意識は、ものすごく嫌な、気持ちの悪いエネルギーでした。

自分の正当性を主張する感じ。
「私は被害者なんだから優遇されるべきだ」という、切り札というか、水戸黄門の印籠を持って居るかのような優越意識や狡さ、パワー感のようなもの。
計算高さ。
被害者という立場に立つことで、人に罪悪感を与えてコントロールしようとする感じ。
自己陶酔。

私がずっとずっと否定してきた、自分の中にある醜さ。

けれども、それは確かに、どうやっても、私の中にあるもの。

「そこにあるもの」を、ただ、「ある」と認める
それが「受け容れ」。

その被害者意識、暴れまくる気持ちの悪いエネルギーを、
一切否定せずに、抑えることをせずに、自由にさせる。
「被害者」をまっとうさせる。
「ふむふむ、被害者意識とはこういう感じなのか」と、興味深く、それと一緒に居る。

しばらくそうしているうちに、その被害者意識のエネルギーを感じていることが、
何故か、ものすごく気持ち良くなってきたのです。

被害者意識のエネルギーが気持ちの良いものに変わったわけではありません。
相変わらず、ものすごく気持ち悪くて嫌なエネルギーです。(笑)

けれども次第に、その、ものすごく気持ちの悪い嫌なエネルギーを感じていることが、気持ち良くなって行ったのでした。

そして私の中に、「ああ、これ、別にあってもいいじゃん。」という気持ちが、自然に湧いてきました。

そう、別にあってもいい。
感じちゃダメな気持ちや思いなんて無い。
ただ「そうかそうか」と、認めてあげればいい。

ああ、そうなのだ、と思いました。

これが、私がやっと本当の意味で「受け容れる」ということを理解できた時かもしれません。

ダメな自分を「OKな自分」に変えようとするのではなく・・・

先に書いた「過激な受け容れ」のように、自分のすべてを完全に受け容れる、というのはハードルが高いですが…

ちなみに、「すべてを完全に受け容れる」というのを目指しても、かなり難しいと思います。
「頑張って」受け容れようとするのは、「受け容れる」とは違います。
(そういう場合、どちらかというと「受け容れられない自分を、そのまま受け容れる」になるかと。)

実は「自我である自分」には「すべてを完全に受け容れる」というのは不可能です。
ですので、「すべてを受け容れよう」「受け容れなければ」と頑張る方向性は、あまりお勧めしません(^^;)

このあたりの話はまたブログに書いて行きたいと思います。

でも、自分の正直な気持ちや思い、私の被害者意識のように認めたくないものについて
「ただ、それがあるのだ」と認めてあげることはできるかもしれません。

どんなに酷い思いであっても、一般的には「絶対にダメだ」と言われるような思いであっても、

ダメな自分を「OKな自分」に変えようとするのではなく

ああ、私はこう感じていたんだ。
良いも悪いも無く、これこそが私の感じていたことだ。

そんな風に、ジャッジ無く、
心から、無条件に認めることができたとき。
本心から「そうだったんだね」と言ってあげられたとき。

真の癒しと変容が「起こる」。

そう、癒しは「起こすこと」ではなく「起こること」だと、私は思っています。

そうして。

たとえ「今よりも良い自分」や「素晴らしい自分」にならなくても、
自分をOKと感じられるようになって行く。

そのまんまの自分自身に寛ぐことができるようになって行く。

そして、これは恐らく、自分で自分の心と向き合う中でしか体験できない癒しではないかと、私は思うのです。

「受け容れる」ことの素晴らしいパワーを、自分自身でも、セッションでも、日々実感しています。

ちなみに私は今でも、自己否定がバリバリ発動する時もあります(;’∀’)

でも、それも含めてOKと知っている

そのことが私を、ずいぶん助けてくれているなあと思うのです^^

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