「思考の観察」についてのコツ~思考との【同化】が緩む「自我(エゴ)として観る」という視点~

「思考の観察」というのは、癒しにおいて、非常に大切なことだと思います。
「思考との【同化】」が、私たち人間の根本的な苦しみの原因のひとつでもあるからです。


▼「思考の観察」の具多的な方法などについては、こちらをどうぞ。

目次

思考の観察って、シンプルだけど難しい…

思考の観察とは、「自分の思考の存在と、その内容に気づくだけ」という非常にシンプルなことなのですが、

これが難しい・・・ゲロー

ポイントは、
「思考は自分そのものではない」
この視点で観察することです。(この辺りは詳しく説明すると非常に長くなるのでまたの機会に・・・)

思考に気付いていること自体は、最初は難しくても慣れればできるようになって行きます。

じゃあ何が難しいのか?というと、私の経験上は、

「思考の観察をしているつもりで、思考に飲み込まれている」
「観察をしている側の自分の思考に気付けない」

といったあたりかなと思います。

私は2013年にロンドンのHolistic Healing Collegeで行われていた溝口あゆかさんのセラピスト養成講座に参加して、心の学びが始まったわけですが。
その講座においては、何は無くとも「思考の観察」ということが、まず何より大切な課題として伝えられます。

セッションにおいて自分の思考を投影しないこと
そのために、常に自分の思考に気付いていること。

それがOADセラピストとして必須のスキルだからです。

(批判ではなく…カウンセラーやセラピストであっても、こうしたことを学んでいない場合もそれなりに多くあります。)

そしてまた、自身の癒しを進めるうえでも、
自分の思考に気付いていること、思考から距離を取って観察できるようになることは、非常に大切な要素になるからです。

私は、思考の観察というものを始めてからもずっと、
「観察をしている側の自分の思考に気付くのが難しい」という状態でした。

観察をしている側の自分も、観察しながら何かしらを考えていたりします。
その観察をしている側の思考にも気付くのが「思考の観察」なのですが、
この「観察をしている側の自分」は、「私そのもの」「これが私」という状態…つまりその思考と完全に【同化】している状態のため、思考に気付くのが非常に難しかったのです。

「思考と【同化】している」とは、「思考と一体化している状態」であり、その状態では思考に気付くことができません。

「観察をしている側の自分の思考に気付くのが難しい」

私は幼い頃から、自分のエゴっぽさを強烈に目の前に見せつけられているような状態でした。

自分さえ良ければいいという狡さ。
自分は特別な人間という感じがあり、人を見下す。
罪悪感を持たせて人をコントロールしようとする。

などなど・・・
自分のそういう部分が、ものすごくはっきりと見えていました。

そして、そういう自分のことを「世界で一番、心の醜い人間」だと心の底からそう思っていました。

そして、そんな自分をどうにか変えよう、変わろうとするのに、
どうしても変えられない、変わらない・・・

それが私にとって大きな苦しみでした。

そのためか、私の中では

その自分の醜い部分を常に見張り、
そしてただひたすらに責め、劣等感に苛まれる”自分”。

そういう”自分”のエネルギーが強烈になって行きました。

自分を癒すことに取り組み、思考の観察を始めてしばらく経って気付いたのが、
観察する側が常にこの「自分を見張り、そして責める自分」の視点になってしまう・・・ということでした。

思考の観察というのは、

思考に対して何の判断もジャッジもせず、
単純に、ただ生じている思考の存在と内容に気付いていること です。

けれども、どうしてもそれができないのです。

自分を見張り、ダメな部分を見つけては責めることしかしない自分

また、癒しを学んだことで、
責めるだけではなく、
更に「どうしたら変わるのか、どうすればいいのか」というのも加わって。

思考を観察しようとした時に、常に、その”自分”の目を通してしか見ることができない・・・
「ジャッジせずにただ気づいていること」ができない。

けれども、それに気付いても、その「自分」のエネルギーが強烈で、
さらにその自分と深く【同化】しているために(同化を簡単に言うと「それこそが自分自身だと感じている状態」です。)

その”自分”の視点から外れることができない・・・
そういう状態でした。

私は、その”自分”と深く同化し、それが「私そのもの」、私の「本体」のように感じていました。

その「本体」が、自分を見張り、責めて、
そして、どうしたら変わるんだろう、何をすればいいんだろうと、自分を変えるために様々なアプローチを試み、どうにか自分を変えようとする。

色々なことを考え、「正解」を求め、
必死で自分の人生の舵取りをしている自分。

私が本当に見るべきは、その「本体」とも言える自分なのだと、
そのことにも徐々に気づき始めますが、

ずっとその「本体」の視点で、強烈に自分の内面にフォーカスしてきて、あまりにも深く「本体」と【同化】しているために、

その「本体」を見るというのは、
例えれば、「鏡を使わずに自分自身を見ようとするような奇妙な感覚」で、

まったく面白いくらいにできなくて、
いったいどうすればこの「本体」を見られるようになるのかも、さっぱり分からなかったのでした。

これが、先ほど「観察をしている側の自分の思考に気付くのが難しい」と表現したことです。

自分がそういう状態だと気付いていながらも、思考との【同化】がめちゃくちゃ激しい私は、そこから抜けられず、それをどうすることもできませんでした。

けれども、そんな状態であっても、思考の観察…自分の思考に気付いていることで、

自分の思考と少し距離を取ることができて、それに巻き込まれないでいられること。
思考を、流れる雲のように流せること。

そういったことには繋がり、
それだけでも、苦しみから楽になっていくうえで、ずいぶん助けになりました。
(ですので、苦しみの中にある方には、思考の観察はおススメです!!!!!ニコニコ

その後、ある時に「思考は自分ではない」「思考は勝手に自動的に起きているだけだ」ということが体験的に理解できて、
そこから思考との【同化】はだいぶ緩んで行ったのですが・・・

その体験以前に、私が思考の観察について試行錯誤する中で得た「コツ」のようなものがあります。

先ほどの話の、「本体」をこそ見たいのに、どうしても見ることができない…
そのジレンマの中でかなり長い時間を過ごしましたが、そこで色々と試みた結果、
ある「コツ」によって、少しずつ「本体」との同化が緩み、「本体」を見ることができるようになって行きました。

思考を観察するうえでの「コツ」とは。

私なりの思考を観察するうえでの「コツ」は、

単に「出て来る思考を観察する」のではなく、

思考・・・つまり自我(エゴ)が、
何を目的に、何をしようとしているのか?

つまり、「自我(エゴ)として観る」ということです。

もう少し具体的に言うと、

思考を「観察しよう」としている”自分”
何かを「しよう」としている”自分”

いわゆる「これが私」という感覚を伴った「本体」の”自分”

その「本体」の”自分”をも対象として、

”自分”が、
つまり、思考(自我・エゴ)が

いったい何をしようとしているのか?
何をしているのか

そういう目線で、ただじっと、
その思考の動き、思考がやっていること、思考のエネルギー・・・そういったものを観察する、という感じ。

思考(自我・エゴ)がしていること、しようとしていること」とは・・・

思考(自我・エゴ)がしていること、しようとしていること」

それは、究極的に言えば、

外や他者と自分を分け、区別し、切り離して、

そして「自分」というものを際立たせること。

「自分感」を感じること。

そこに帰着します。(もちろん具体的にはそれだけではないのですが。)

それは「良い」とか「悪い」とかいうものでなく、

思考とは、自我・エゴとは、そういうものだ。

ということです。

思考(自我・エゴ)というものの性質と、
それがどういうものかを学び、

自分の心の中で、いったいどういうことが起きているのか?をよく観察して、
思考(エゴ)というものについて経験的に知って行くこと。

そして、

「人類の共通プログラム」とも言えるエゴ

それは実は「自分自身ではない」こと。
それを見抜いて、見破って行くこと。

それは、この混乱した世界の中で、いま一番必要とされていることではないかと思います虹

先のセラピスト養成講座で必読図書とされているこちらの本は、「自我(エゴ)の教科書」とも言われるほど、「自我(エゴ)とはどういうものか」について非常に分かりやすく書かれています。
本質的な癒しを求めている方に、ぜひおススメの一冊です。

ニュー・アース 
エックハルト・トール(著)

思考を観察するうえでの、もうひとつのポイント。

少し話が戻りますが。

「本体」の”自分”をも対象として見る…と言うと、

じゃあその「本体を見ている自分を、更に見ている自分がいて・・・」
「それを更に見ている自分がいて・・・」「←をまた見る自分」「←をまた見る自分」

どこまでも終わらないじゃないか!!!笑い泣き

というように、

エゴの視点の「マトリョーシカ現象」(と、私が勝手に呼んでいる。笑)
を起こして混乱されてしまう方もいらっしゃるかと思いますにひひあせる

ここで、もうひとつ大切なポイントがあります。

それは

なるべく、「ただ気付いている意識」に寄り添って観察すること

です。

「ただ気付いている意識」は、

何のジャッジも、コメント(思考)も、感情も無く、
ただ「気付いているだけ」

私たち人間のベースには、この「気付いている意識」が存在しています

「気付いている意識」を感じていただくために、私なりの言葉で表現してみると・・・

見ようと頑張らなくても、見えている
聞こうとしなくても、音は聞こえている。
感覚(暑さとか痒みとか…)を感じようと努力しなくても、感じている。

もちろん、「見よう」とすれば、その対象にフォーカスが当たって、「自分が見ている」という感覚が生まれるかもしれません。

けれども自分が意識的に「見よう」としなくても、目に周囲のモノは映っています

何の努力も必要無く、自分が「見よう」「聞こう」としなくても、

それ以前に、既に、目に見えるものや音、感覚・・・すべてに気付いている意識。
常に、目に見えるものや音、感覚・・・すべてに気付いている意識。

この、「ただ気付いている意識」になるべく寄り添う。

このことに意識を向ける時間を日常の中に取り入れることで、思考の観察がしやすくなっていきます。

(頑張って書いてみたけど、全然上手く言葉にできていない感アリアリですが…ご容赦を笑い泣き

シンプルに、思考とその内容に気付いていればそれでOK!です。

まあ色々と複雑にお伝えしちゃいましたが笑い泣きあせる

「ただシンプルに、思考と、その内容に気付いている」

それができれば、それでOK!
それこそOK!!!

です!!!笑

ただ、

それが難しい・・・

そう感じている方にとって、何かもし、少しでも参考になることがあれば、
そこで苦しんだ身としては(笑)とても嬉しいです笑顔虹

ちょっとマニアック?な「思考の観察」について私なりのコツを書いてみました。
もしどなたかのご参考になれば幸いです^^

▼「どれだけ自分が思考を無条件に信じているか」…それに気付くことも、”思考観察のコツ”です。
詳しくは以下の記事をどうぞ。

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