「目覚め」は、アセンション(上昇)ではなく・・

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「目覚め」とは…

「目覚め」って、

自我(エゴ)が喜ぶ方向や
自我の自己防衛

それとは真逆の方向に向かうことなんだなあと、
そのことが、今までよりもさらに実感を伴って分かって来ました。

何かを手に入れようとか(有形・無形を問わず)、
いわゆる自己実現・・・今よりすごい自分、成功した自分、優れた自分になろうとか、
悟った自分になりたいとか(笑)、

そういった「自我の強化」に繋がる方向ではなく、
その、逆の方向。


どれだけ欲しいものを手に入れても、
なりたい理想の自分になっても、

その満足は長くは続かず、

そして、そこに真の平安は無くて。

どこまで行っても、エゴの回し車の中。

「きっと、これさえ手に入れば大丈夫、幸せになる」という漠然とした「何か」、
自分でも良く分かっていない、そういうものがあると思って、
その「何か」を、目の前の、手が届きそうで届かない絶妙の位置にぶら下げて、
どこかで「おかしいな」と思いながらも、永遠に届かないそれに到達しようと走り続ける。

自我(エゴ)の世界は、そういう世界。

「じゃあ、この世界から、回し車そのものから抜けよう!」という、ある意味ウルトラCみたいなもの(笑)が、
目覚めとか悟りとか言われるものな訳ですが。

自分の中の肥大化した自己像(イメージ)が崩れて行くこと。

目覚めとは、アセンション(上昇)ではなく、ディセンション(下降)である

数年前に、どこかで目にしたこの言葉が、何故か、深く印象に残っています。
この言葉の真意、言わんとすることは私には分かりませんが、
「悟り」というのは、エゴにとっては、ディセンション(下降)と言えるものかもしれないなあと思うのです。

私の中には「私は特別な人間なはず」という特別意識が、幼い頃から根深く存在しています。
(このブログを読んでくださってる方にはお馴染みですよね。笑)

その特別意識を、「人として最低なこと」と強烈にダメ出しして、何とかそんな自分を変えようと、長らく取っ組み合いをしてきたわけですが…

でも、そうやってその特別意識を否定しながらも、
「私は特別な人間なはず」、そして「だから、いつか何者かになれるはず」という思い・感覚は、
私にとっての拠り所でもありました。

と同時に、苦しみを生むものでもありました。

ずっと、 「私は特別な人間なはず」という思い・感覚 を握り締めて、
それを通して世界を認識して、

自分より優れていると感じる人には、嫉妬や羨望、焦りや劣等感を感じたり、

人よりも自分の方が優れているという優越感を持っていたり、
そしてそんな自分にダメ出ししたり、

無意識に「できる自分」を装ったり。

そうやって人生を生きて来ました。

けれども、

その「私は特別な人間なはず」という思い・感覚は、

真実ではまったくなくて、
自分の中の自己像、イメージにしか過ぎないのだということ。

それが本当に見えた時、
自我は拠り所を失って、自分の価値が地に落ちたように感じました。
(ちなみにこれ、めっちゃ痛いです…( ;∀;)笑)

「何者でもない自分」というのは、
自我(エゴ)には受け入れ難いことです。

でもそのとき同時に、微かに自由の風も感じられたのです。

どんな自己像も、実態の無い「イメージ」に過ぎない。

「私はこういう人間だ」という、自分自身に関するどんな自己像も、
「イメージ」に過ぎません。


つまり実態の無い、ある種の幻想と言えるのです。

ネガティブな自己像の場合は、
それが自分の思い込み、概念、イメージにしか過ぎなかったことが分かれば、楽になるでしょう。

けれども、それが自分にとっての拠り所やポジティブなものだったら、
自我は抵抗し、「受け容れられない」と感じるでしょう。
その自己イメージ(自己像)との同一化の度合い、握り締めている度合いが大きいほど、抵抗も大きいです。

ネガティブ、ポジティブのどちらにせよ、
自分が握りしめた思い込み、概念、イメージという、「そもそも真実ではないもの」を、
あたかも「真実であるかのように」感じて、
そして、真の様相…「真実ではない」ということが見えた時に、喜んだり抵抗したり。

「ひとり芝居」って、こういうことでしょうかねえ…( ;∀;)

自分の中の肥大化した自己像(イメージ)が崩れて行くこと
自我の解体。

それは、目覚めてしっかりと地に足を付けて生きて行く方向。
「上昇(アセンション)」というよりも、「下降(ディセンション)」とも言えるかもしれないなあと思うのです。

自分の見ている世界は、自分の内側の投影

そしてもちろん、自分に関する印象(自己像)だけに限らず、
他者に関する「この人はこういう人だ」という印象も、
世界や出来事に関する「これはこういうものだ」という印象も、
「事実」ではなく、
自分の内側の、実態の無い「イメージ」に過ぎません。

自分の見ている世界は、
すべて例外無く、自分の内側の投影だということ。

自我(エゴ)との同化が緩むほどに、それが明らかに見えて来ます。

自分が真に求める方向、望む方向へ向かうこと

こういう話になると、 自我の望みを叶えようとすることが「悪い」ように思われるかもしれませんが、
自我(エゴ)の喜びや自己実現を求めることが「悪い」とか、そういうことではなくて。

どちらの方向に向かうのか、どちらの方向を望むのかは、
好みや趣味の違いくらいの話だと思います^^

また、自分の望みや願望に対して「これはエゴなのか、それとも本質的なものなのか」と考えてしまう方が多くいらっしゃいます。(私も考えたりします…笑)

けれどもそれは、多くの場合、頭で考えて分かることではありません。

シンプルに、自分がそれをやりたかったら、やる。
それだけです^^

やってみて違うと思ったら、止めればいい。

違ったとしても、そして自我(エゴ)からのものであっても、
そこから得る経験や学びもあるわけです。
自我(エゴ) は「無駄」を嫌いますが、果たして、「無駄」って何でしょう??

そして、「エゴの欲求に従うのはダメだ」とか「エゴを無くさなきゃ」とか言っているのも、エゴです。
人間として生きる以上、エゴは無くなりはしませんし。(知らんけど。たぶん。笑)

どんな方向にせよ、
その時の自分が求める方向、望むこと方向へ向かうこと


それが幸せだなあと思うのです^^


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