トラウマや苦しみの経験が財産になる可能性 ~ポスト・トラウマティック・グロース︰心的外傷後成長~

目次

「ポスト・トラウマティック・グロース(心的外傷後成長)」とは

PTSDという言葉をご存知の方も多いかと思いますが、、、

PTSD(Post Traumatic Stress Disorder)とは:
心的外傷後ストレス障害などと訳される。
強烈なショック体験や強い精神的ストレスを受けた後、時間が経ってからも強い恐怖などを感じ続ける症状。

「ポスト・トラウマティック・グロース(心的外傷後成長)」(以下「PTG」)という概念があります。

PTGとは、

トラウマや逆境体験による心の葛藤や苦しみ…そういった非常に困難な経験から、
心理的な成長を遂げたり、前向きな何かを見出したりするプロセスや結果を意味します。

なお、これは、トラウマそのものの体験から生まれるのではなく、
トラウマから回復して行く過程や、トラウマから抜け出した結果として生まれるものです

PTGの例としては、同じ状況や苦しみの中にいる人の気持ちが分かる、ということもそうですし、以下のようなものがあります。

  • 自分自身や他者への思いやりや共感が深くなった
  • 一日一日を大切に過ごそうと思うようになった
  • 自分の内なる素晴らしい資質に気付いた
  • 人生における大切なものの優先順位が変わった
  • 人に頼ることができるようになった
  • 家族や大切な人との繋がりが深まった
  • 人間や命がいかに素晴らしいものかを感じるようになった
  • 生きることの意味を考えるようになった
    …など。

今日は私の癒しの中で起こった、ちょっとしたPTG体験についてお話したいと思います笑顔

心理セラピーの中で起きた、私のPTG体験

私の小学校の低学年の時の男性の担任の先生は、忘れものなど何かの罰を与える時に、「クラスメイト皆の前でお尻を突き出す姿勢をさせて、そのお尻を棒で叩く」ということをする人でした。

「ケツバット」と呼ばれていました。

昭和の時代には、よくあったことですよね・・・

当時の私はこの「ケツバット」というお仕置きが、ものすごく怖かったようです。
私は中学以前の記憶がほとんど無いのですが、この担任の先生の名前は今もフルネームで覚えているほどなので…。

その小学校では、運動会の時に生徒がするハチマキは、学校から借りて、終わったら洗って返却するシステムでした。

私はそのハチマキの返却日に、母が洗濯してアイロンをかけてくれたハチマキをちゃんと持っていたのですが、何故か返却をしませんでした。(何故かというのはまったく記憶にありません。)

私は数日間、そのハチマキを持ち歩くことになります。

返却日を過ぎてしまったために、怒られること、そして「ケツバット」が待っていることが、どうにも恐ろしく、返すことができなかったのでした。

早く返さなきゃと思うのに、怖くて言い出せない・・・そんな状態でした。

そして数日経っても返すことができず、思いつめた私は、
教室に誰も居ない時を見計らって、教室の隅のゴミ箱に、そのハチマキを捨ててしまいます。

ゴミ箱の中の、綺麗にアイロンがかかった黄色いハチマキ。

この映像は、とても鮮明に私の中に残っており、大人になってもたまに思い出すことがありました。

このように、なぜか鮮明に記憶に残っている場面は、トラウマ的な体験であったりします
(そこに付随する感情やショックは、時とともに顕在意識からは薄れて行き、忘れるので、自分ではそれがトラウマ的な体験だとはまったく思わないことも多いです。)

ある時、この記憶にセラピーをしました。

身体の感覚からその時の自分にアクセスすると、
そこには、ものすごい恐怖感や焦り、
そしてハチマキを返せずに捨ててしまう自分への強烈なダメ出しや恥ずかしさ、劣等感、罪悪感などがありました。

セラピーの中では良くあることですが、
自分の潜在意識にある、当時の感情的な痛みにアクセスすると、「こんなにも痛かったのか」と本当に驚きます

その当時の自分には、それらの痛みは、痛すぎて、十全に自分の内側で感じることができませんでした。

もしその時に感じることができていれば、それらは流れて自分の中には留まりません。
であれば、「その場面が(記憶に焼き付いていて)度々思い出される」といったようなことは起こらないのです。

そういった未消化の痛みが、
私たち人間の内側には、山ほど(笑)冷凍保存されたように当時のまま残っています。

それらの感情的な痛みを、当時の自分と一緒に、自分の中心で深く感じて行く・・・

「こんなにも怖かったんだね」
「こんな罪悪感を感じるのは痛すぎたよね。だから感じられなかったよね。いま十分に感じていいよ。」

そんな気持ちで、小さな自分と一緒に、今の自分がそれを感じて行きます。

恐怖、焦り、自分を強く責める声、罪悪感・・・
それらが成仏して行くような、私の中に統合されて行くような感覚が生まれて。

そして小さな私は、落ち着いた状態になり、自分の中で起きていたことを理解した様子になりました。

ちなみに・・・

こうしたトラウマ的なショックや感情的な痛みを感じて行く場合に、
自分の内側に、ベースとしての安心の感覚が養われていることが非常に大切です。

ベースの安心感が無い中で、こうしたショックや痛みにアクセスすると、

それらに圧倒されてしまったり
本当にその時に感じていたショックや痛みを、自分の中で十分に迎え入れて感じてあげられないといったことが起こり得ます。

こうした場合、セラピーの中で、ご本人は「ちゃんとその痛みを感じている」と感じていても、
「実際には、本当のショックや痛みを感じられていない」という状態だったりします。

そうなるとなかなか癒しには繋がらず、トラウマの再体験で終わってしまう場合もあります。

そうした意味でも、自分の内側にベースとして安心の感覚が養われていることは、とても大切だと思っています。

▼もっと詳しく知りたいかたはこちら

感情の渦が落ち着いて、静かに立っている小さな私に、「どうしたい?」と尋ねると、

少し考えてから、

「怒られるだろうけど、ちゃんと返す」と言いました。

その小さな身体から、覚悟というか、肚の座った感じや勇気といったものが伝わって来て、ちょっと泣けました。

その子の、肚の座った感じや勇気のエネルギーは、
私自身にとって、潜在的なパワーに繋がるような力強い感覚でした。

ハチマキをゴミ箱から拾って、先生のところへ持って行く。
少し怖さもありつつ、でも「遅れました、ごめんなさい」と言ってハチマキを返す。

それをした小さな私は、しっかりと自分の足で立って、ちょっと誇らしげに微笑んでいました。

そして私の内で「終わった」という感覚が生まれたのでした。

トラウマ体験が完了した時に、このように「終わった」という感覚が生まれることがあります。

今でも、この時の肚の座った感じや勇気のエネルギーにアクセスすることができるし、
それと繋がると、落ち着きや力強さのようなものが内側に感じられます。

この感覚は、私の「内なるリソース(資源)」となったのです。

苦しい体験を、自分にとっての財産として行ける可能性があるということ。

セラピーの中で、単に「トラウマ的な体験が癒された・完了した」というだけでなく、

潜在的な自分の内なるパワーや資質と繋がったり、
深い洞察を得たり・・・

そうしたことが起こる場合があります。

肯定的な変化や成長に繋がる場合があるのです。

私自身の体験でも、クライアントさんの体験でも、それをたくさん見てきました。

そしてセラピーの中だけに限らず、

人生そのものを通して、
苦しい体験を、自分にとっての財産として行ける可能性があるということ

それには、ものすごく長い時間がかかるかもしれません。

そして、苦しみの最中では「そんなこと無理だ」と思ったとしても当然ですし、
何よりもちろん、「成長に繋げなければならない」とか「それが良いことだ」ということではまったくありません

私たちひとりひとりの性質も、生まれ育った背景も体験も様々です。

「苦しい体験をしたら人間的に成長するはずだ(するべきだ)」とは考えないでいただきたいと思います。

私も、自分の苦しかった体験を、心から「財産」と言えるかと言ったら、まだまだそんな境地ではありませんにひひあせる
(少しずつ自然に、その出来事への見方、視点は変わって来ていますが。)

けれども、癒しに取り組み自分の心と向き合う中で、

自分自身やその出来事に関わった他者、状況、
それらへの深い理解が生まれ、

自分や世界を違った視点で見られるようになったり、
優しさや温かさが芽生えて来たり・・・

それは「PTG」に繋がるものだと思います。

トラウマや苦しみが、単にネガティブなもの・取り除くべきもの、というのではなく
自分にとっての財産になって行く・・・

癒しは、そのプロセスと言えるかもしれないなあと思います笑顔


▼個人セッションでは「分析」や「意志の力で何かを変える」という方法ではなく、
「あなた自身が内なる癒しを体験する」ことをサポートしています。

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